閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

554 白髯翁の目を盗み

 しだらない男であるところのわたしであるから、大体の酒精は見境なく呑む。
 麦酒。
 葡萄酒。
 焼酎。
 泡盛
 ヰスキィ。
 勿論お酒も呑む。酎ハイも呑むしカクテルも呑む。どうも身持ちの惡い感じがされるけれども、事實がさうなのだから仕方がない。

 そこで困ることがあつて、わたしはつまみがないと呑めないたちなんである。絢爛豪華な食事を求めるのではなく、干物だの漬物だの酢のものだの、ごく簡単なものでよい。
 ごく簡単なら困りはしない。
 と思ふのは浅薄な理解で、ギネスを呑んでからお代りに鳳凰美田を呑むとして、何をつまめばいいのか。それぞれにフィッシュ・アンド・チップスと焼き鮭が似合ふのは判るとして、両方を頼めばいいのか。しだらない男であるところのわたしは、すつかり食の細くなつた男でもあるから、とても食べきれる自信が持てない。
 我が儘を云ふてはならぬ。
 男子たるもの、酒肴いづれも文句を附けぬものよ。
 白髯の翁から面と向つて叱られたら、肩をつぼめて誤魔化すのだけれど、つぼめつつも腹の底では、矢張り何を呑んで何をつまむかは、ひとつに纏めて考へたいものだがなあと呟くにちがひない。尤も呑み助の心情から云ふと何を呑む時に何をつまむ組合せを幾通りも考へ、また覚えるのは面倒でいけない。だから何を呑んでも適ふつまみがひとつふたつ、あつてほしいと思ふ。

 経験的に云ふと塩漬け酢漬けの類なら、ほぼ間違ひない。世界中にありふれた調味料であり、保存法でもあるから、当り前の話といつて宜しい。確かにザワー・クラウトや色々のピックルス、蛸と胡瓜と若布の酢のもの、或は鯵の南蛮漬けなら、卓子にもカウンタにも掘り炬燵にも似合ふ。
 但し。準備が面倒なのはいけない。しだらなくて食の細くなつた男であるところのわたしは、たいへん不器用な男も兼ねてゐるから、とても自分では作れないし、マーケットで賣つてゐるやつは多くの場合、砂糖だか味醂だか知らないが、甘みが勝ちすぎてゐる。感心しない。
 いつだつたか、偶さか入つた小さな呑み屋で食べた酢のものを思ひ出した。こちらの註文を受けてから、胡瓜と蛸を切つて、若布とあはせ、二杯酢か三杯酢か、小鉢で少し馴染ましたのを出してきて、これが實に旨かつた。濁り酒をやつつけてゐた筈だが、もしかして酢の具合を調へたのだらうか。
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 併しさういふつまみを手早く用意してくれるお店が何軒あるものだらう。
 丹念に探せばあるかも知れない。知れないにしても、丹念に探すのは面倒である。仮にここは佳ささうだと感じたお店を見つけても、佳ささうが佳いになるかどうかは何度か通はないと判断は六づかしい。この場合の佳いは、つまみが口に適ふかもだけれど、客あしらひの気持ち好さも含まれる(客あしらひの巧い店は、通ふお客のたちも惡くない)から、一回では決められない。面倒なんである。

 しだらなくて食の細くなつた男であり、たいへん不器用な男であり、無精者でもあるところのわたしとしては、出來るだけ手を抜きたい。
 ここ最近は専らチーズを食べてゐる。家で呑む夜の話。チーズに詳しくないから、マーケットで廉なプロセス・チーズを買ふ。目を見張るほど旨いわけではないが、吐き出したくなるほどまづくもない。好意的に云へばくせが少く、そこが好都合といへる。罐麦酒でも安葡萄酒でも適ふ。ママレイドをほんの少し乗せてよく、隣に干し葡萄を添へてもよく、味附け海苔や海苔の佃煮とあはせれば、お酒にも適ふ。勿論そのままつまんでもかまはず、面倒がなくていい。これくらゐなら、白髯翁に叱られる心配もなからう。
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 尤もチーズだつて、凝り出すと切りがない。
 幸ひと云ふべきか、塩辛かつたり、黴を使つたりする、癖のきついチーズは苦手だから、その方向に走る心配はしなくてもいい。併し別の方向…(ありきたりの)チーズに何をあはせるかといふ樂み…いつだつたか食べた、ヴィンテージは忘れた白の葡萄酒にあはせた、葡無花果を添へたクリーム・チーズには感心した…はある。果物に限らず、組合せ…マリアージュの妙は、しだらなくて不器用で食の細い無精者であるところのわたしでも、難度と低いのでは思はれる。
 さうだ。
 蜂蜜を使つた甘い梅干とあはせるのはどうか知ら。白髯翁がどこかに出掛けた隙を見つけて、試してみるとしませう。