閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

847 ホワイトなフィッシュのフライ

 偶に食べると、コンビニエンス・ストアのお弁当もうまいと思ふ。うまいが大袈裟なら、惡くないと云ひませうか。尤もおれは臆病且つ保守的な男である。変り種には手を出すまいと決め、海苔弁当や幕の内弁当か、その辺を買ふ。

 そのコンビニ弁当(とここからは略しますよ)でお馴染みのおかずに、竹輪の天麩羅と白身魚のフライを挙げて、異論は出ないと思ふ。落ち着いて考へたら、ごはんに適ふのか知らと疑念が浮ばなくもないが、別段不満に思はないのは

 「コンビニ弁当はさういふものだ」

と刷り込まれてゐるからだらう。最初にたれが考へついたのか知らないが、大した發想だつたと云つていい。

 

 話を白身魚フライに絞ると、おれと白身魚フライの縁は幼少の頃まで遡れる。今でもあるのかどうか、ホワイトフィッシュといふ(多分)冷凍食品があつた。記憶だと煙草の函と同じか、ひとまはり小さいくらゐのフライで、名前の通り、白身魚の擂り身だかほぐし身だかが入つてゐた。マヨネィーズとケチャップとウスター・ソースを混ぜたので食べた。

 まあ併し当時のおれは、それを"ホワイトフィッシュ"といふ食べものと認識してゐた。詰り

 「これは何のお魚を使つてゐるんだらう」

不思議に思はなかつた。無邪気だつたなあと云つたら、ノスタルジック趣味に過ぎるか。ここでは往時の食べものに記憶の調味料が振られるのは当然なんだよと居直つておかう。何しろ四十年余り前の記憶なんだもの。

 

 ホワイトフィッシュはいつの間にやら、丸太の家の食卓から姿を消した。商品が無くなつたのか、食べものへの嗜好に変化があつたものか。事實としては不肖の倅が獸肉を歓ぶ年齢になつたとか、きつとそんなところだらう。

 獸肉、膏み。

 獸肉、赤身。

 魚介、お刺身。

 魚介、煮焼き。

 おれの嗜好はかういふ段階で変化を遂げ(たれです、加齢と老化の帰結だねえと笑ふひとは)、魚介の煮焼き期に割り込んできた烏賊のフライや蛸の唐揚げに混つて、伏兵でもあるかのやうに、白身魚のフライが顔を出した。出してきた。

 コンビニ弁当だつたか、持帰り式のお弁当だつたか。いいぢやあないかと思つた。ウスター・ソース(さう云へばマヨネィーズとケチャップは混ぜてゐない)でいいのは勿論、醤油もよく、味つけぽん酢でまたよく、タルタル・ソースもよい。衣のくどいのと白身の淡泊の案配が、加齢と老化で弱つた胃袋でも受け容れ易いのも有難い。正直なところ、ごはんとの相性は(矢張り)微妙ではあるので、家で食べる時は横に置いて、罐麦酒の摘みにする。我ながら花やかさには欠けると思ふが、正体の明らかでない白身魚…鱈の類らしいのは知つてゐる…のフライなら、まあまあ妥当な扱ひでせう。

 「白身魚フライに嵌まるのは、さういふちよつとしたお摘みくらゐの位置附け」

である。そんな風に考へると、コンビニエンス・ストアのホットスナックだつたか、鶏の唐揚げやアメリンドッグと一緒に並んでゐないのが不思議に思へてくる。馬鈴薯のフライとあはせたら、ホワイトなフィッシュのフライ・アンド・チップスが出來るのに。