閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

348 ロヴェルの冷し中華

 考へてみたら令和元年の夏…暦の上では既に秋だが、一応新暦の八月末までは夏に含めたい…は、冷し中華を食べてゐない。この“食べてゐない”はお店とマーケットで買ふのと自分でどうにかするのを全部含んでの話。古い手帖を捲るのを省略し、記憶だけで云ふと、何年振りの筈である。尤もわたしが好む冷し中華は、酸つぱいたれに、細切りのハムと玉子焼きと胡瓜(細切りはすべてに掛かる)、それから木耳と辛子で成り立つもので、かういふのを求めると案外なくらゐ、見つからない。ハムが煮豚になり、トマトが追加されるまでは我慢するとして、マヨネィーズまで添へられた日には、寿司屋で予告無しにカリフォルニア・ロールを出されるのと同じくらゐの気分になる。いや寿司屋で予告無しにカリフォルニア・ロールを出された経験は無いから、これは想像なのだけれども。

 念を押すと冷たい麺を食べない…詰りきらひなわけではない。夏は食欲ががつくりと失せるのが例年で、その時節の冷たい麺は有り難いもので、事實昨日も素麺を啜つた。素麺を旨いと感じてゐるかどうかは別かも知れない。冷たいのがうまいのは間違ひなく、単純な感想ではあるし、カクテルについてのハーヴェイ・ロヴェルの箴言が思ひ出される。ロヴェルが何者かを知りたければ、『深夜プラスワン』をご一讀なさい。寝苦しい夜を忘れさせる讀書になるのは、わたしが請け合ふ。

 ロヴェルが云ふには、カクテルは冷しておけば一応うまいと感じられるさうで(アメリカを統治するこつでもあるらしい)、確かに説得力がある。今ひとつのお酒や葡萄酒も、くつと冷せば晩酌にやつつけるのに不満はないくらゐにはなる。尤もさういふのは温度が戻るにつれて、矢張り今ひとつになる。醸りが丁寧だと、冷し過ぎは感心出來ない。寧ろ温度の戻りで香りが立つもので、それがすべてでもなからうけれど、何を呑むか迷ふ時の判断(少くとも材料のひとつ)に使へるとは思ふ。

 冷たければ一応のところうまくなるのはカクテルやお酒や葡萄酒だけでなく、麺もそこに含めてもいい。前述の冷し中華や素麺、ざる蕎麦もまたさうですな。立ち喰ひ蕎麦屋のざるだと、つゆを冷蔵庫にでも入れてゐるのか、自動販賣機の珈琲のやうに冷たくて(呑み過ぎた夜には有り難いし、温泉卵を入れれば、もつといいのだけれど)、旨いともまづいとも感じられない。括弧書きの部分は括弧書きで収めても平気だからで、無視をしても差支へない程度の例外と云つてよく、詰るところ麺とたれまたはつゆと具と器を塩梅よく冷すのが望ましいといふ当り前の結論に到る。当り前だから詰らないと云はれても、当り前になるまでに打ち棄てられた方法は幾つもあつた筈で、今に残らない手法の死骸残骸の果てに当り前が完成したと思へば、それは詰らなくも莫迦ばかしくもない。

 それで当り前の冷たい麺料理で何が旨いだらうかと考へると、矢張り当り前にざる蕎麦や素麺や棊子麺や冷麦、或は冷し中華に落ち着くらしい。母親が時折作つて呉れたのはスパゲッティを冷たく〆たのに、レタースやハム、トマト、胡瓜にもしかすると人参や玉葱(ツナの罐詰は使つてゐなかつた)をマヨネィーズで和へたひと皿だつた。サラド・スパゲッティと呼びたい気もするが、そこまで洒落た仕立でもなかつたから、スパゲッティのマヨネィーズ和へでいいでせう。洒落てゐないからまづいわけではなく、少年丸太にとつては喜ばしい献立だつたとは云つておいて連想が働いたから續けると、母親が当時用意した冷たい麺は、そのマヨネィーズ和への外に、素麺と蕎麦くらゐで、凝つたことは一切しなかつた。料理が得意ではない(とは本人の弁)といふ事情を含め、不肖の倅としては潔い態度と云ひたい。併し今になつて不思議なのは冷たい饂飩が出てこなかつたことで、どんな理由があつたのだらう。

 たいへん粗つぽい云ひ方になるが、饂飩と冷麦と素麺は、太さのちがひがあるだけで、ほぼ同じである。それで少年の頃の丸太は大坂に住んでゐたから、饂飩は白くてがつしりした、太い食べものであると思つてゐた。ここで念を押すと、大坂の饂飩は讃州ほど腰は強くないが、随分と腹保ちがいい。小腹が空いたと一ぱい啜つたら、次の食事に差支へかねない。詰り(蕎麦とちがつて)立派な食事なので、それがきりりと冷されてゐたら、眞夏にさぞ似合ふだらうと思ふ。思つたので一ぺん自分で試してみたら、大してうまくなかつたから驚いた。ただこれは驚くのが無知なので、大坂や讃州のやうにがつしりした饂飩を中まで上手に〆るには、相応の技術を要する筈である。水道水でざふざぶ洗ひ、氷をはふり込めば(それなりにでも)旨くなると思つたのが誤りであつて、洗ひながら厭な予感は確かにあつた。

 だから冷し饂飩がまづいとは云ふのではない。云ひはしはないが、我われ素人が家で作るなら、稲庭だか武藏野だか呼ばれる細い饂飩を用意するのがおそらくは先決で、母親が頑として冷し饂飩を作らなかつたのは、その辺の事情を熟知してゐたか、稲庭乃至武藏野饂飩を知らなかつたからであらう。知らなければ無いのと同じだし、現にわたしも東の地を踏むまで細い饂飩があるのを知らなかつた。その所為だか何だか、今でもその手の饂飩を見ると落ち着かない。わたしの視覚の問題なのでスリムな饂飩の愛好家には誤解なき様お願ひしたい…と云ひつつ、併し太さはどうあれ冷し饂飩は冷たい麺の中で

 冷たさがすべる快さは蕎麦に劣り。

 用意の早さ気樂さは素麺に及ばず。

 具の豪奢は冷し中華の後塵を拝す。

といふ理由で少し落ちると繋いだら、反發を招くだらうか。これが熱くして供されるなら、鍋焼き饂飩といふ圧倒的にうまい一ぱい(一品で完成する豪奢で鍋焼き饂飩と同じくらゐの格を持つ食べものは散らし寿司くらゐではなからうか)があつて、天麩羅蕎麦とにうめんとラーメンが一緒になつてもその優位は揺るがない。スパゲッティはどうだらうと思つたが、温冷いづれも何かしら不満が残りさうである。沖縄そば米粉になると、熱く仕立てる外になく、饂飩もどちらかと云へば、その方向に近い。そんな風に麺が作られ、そんな風に調理が出來てゐつたからで、良し惡しとは異なる話なのは念を押しておかう。さうなると冷たく旨くそれだけで食事になる身近な麺といへば冷し中華に止めを刺すのかと思へてきて、やうやく話が冒頭に戻つてきた。

 家の近所にあるマーケットとドラッグ・ストアでは袋入りの冷し中華が賣つてゐる。冷し中華とはいへ麺とたれを袋詰めにしただけで、そこには

「麺を何分だか茹で、氷水で〆て、お好みの具を乗せたら、たれをかけてください」

と書いてある。云はんとするところは判らなくもないが、これだと冷し中華の必要最小は氷水で〆た中華麺とたれといふことになりかねない。わたしが思ふ冷し中華を啜りたければ、わたしが思ふ具を別立てて用意し、また拵へなさいと云はれてゐるので、乱暴な見立てだと呆れられても、その乱暴を先にしたのは袋入り冷し中華を出した方だから、苦情を云はれても応じるのは六づかしい。

 なので同じ近所のコンヴィニエンス・ストア(何軒かある)に爪先を向けると、その棚には当り前の顔をして冷し中華が並んでゐる。旨さうかと思はなくもない。具がある分、袋入りよりはましだが、實際に買ふと大したことはない。ああいふのはプラスチックの器の下段に麺を、区切りの上に具を詰め、袋入りのたれを同梱してゐる。食べる手順は蓋を開け、区切りを具ごと取出し、たれをぶち撒けて麺をほぐし、そこに具を散らしてからであつて、何といふか殺伐としてゐる。

「啜つてしまへば同じさ」

と云ふのは野蛮人の態度で、さういふひとは

 天麩羅蕎麦の天麩羅をいきなりつゆに沈め、

 或は早鮓の魚だけをつまみあげ、

 カレー・ライスのルーとごはんと福神漬けを乱雑に混ぜ込んでも、

平気なのにちがひない。この手帖は寛容を旨とするから、止めやしないけれど、こちらの目の前では勘弁してもらひたい。いや失礼。礼儀正しく進めなくちやあいけませんね。いけませんが、胡瓜とハムと錦糸玉子と麺が、最初からごちや混ぜになつた冷し中華は御免蒙りたいと思ふのも本音であつて、となるとお店に行かざるを得ない。

 近所には中華を食べさすお店が二軒ある。以前はもう一軒、ラーメン屋があつたけれど、いつのまにか畳んでゐた。冷し中華があつたかどうかは記憶に無い。残つた二軒の内一軒では冷し中華がある。あつた。曖昧な云ひ方になるのは食べたのが何年か前の一ぺんきりで、それほど感心しなかつたからかと思ふ。厨房に立つのが臺灣か中國か香港…兎に角そつちの方面のひとで、かれらはきつと、日本人は妙なものを食べたがるのだなあと不思議に思ひながら麺を茹で、また〆たにちがひない。別の一軒は冷し担々麺(汁無し)を出したりはするが、冷し中華は出してゐない。以前には冷しラーメンを短期間出して、中々惡くなかつたのを思ひ出すと、今度は冷し中華に挑んでもらつてもいいんぢやあないかといふ気がする。詰りふらつと歩いて行ける範囲に、冷し中華を啜れるお店が事實上、無いといつていい。

 なんだそんなこと。新宿でも中野でも銀座でも好きに出掛ければ、解決するよ。

 といふ尤もな忠告を頂けさうであるが、また反發したくもないのだが、冷し中華をそこまでして食べたいとも思ひにくい。『美味しんぼ』といふ漫画に

冷し中華だつて底流にはあるのは中國料理。だから具やたれは中華のそれで調へると旨いのだ」

だつたか、食通が大笑する場面があつた。今にして思へば滅茶苦茶な話で、カリフォルニア・ロールの底流は日本の巻き寿司だから、ナポリタン・スパゲッティの底流はイタリアのパスタ料理だからといふ理窟が成り立つものではない。新宿や中野や銀座の中國料理屋が冷し中華を扱つてゐるのかは知らないが、仮に扱つてゐるとしたら、それは溽暑にやられた日本人に同情してか、冷し中華ではない涼麺であらう。漫画の食通が高笑ひで自慢したのは後者にちがひなく、詰り冷し中華はわざわざ名店を探す食べものとは呼びにくいことになる。

 となれば残るのは自分でどうにかすることで、何となくどうにかなりさうな気もされる。念を押すと、わたしが云ふ“とうにかなる”のは、“旨く作れる”とは異なつてゐて、食べられなくはない程度の出來上り…まあ母親のマヨネィーズ和へスパゲッティくらゐの意味。冷たさで誤魔化さざるを得なくなるとは容易な予想で、ハーヴェイ・ロヴェルからは、辛辣な批評をくらふにちがひない。