閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

513 ヴェテランの女

 『古今集』巻七は賀歌で、巻頭に詠人知らずとして収められてゐるのが

 

 我が君は 千代に八千代に

 さざれ石の 嚴となりて 苔のむすまで

 

の一首。上の二句が"我が君は 千代にましませ"や、"我が君は 千代にや 千代に"となつてゐる冩本もあるさうで、変化をした事情はよく判らない。その変化した中に、冒頭を"君が代は"としたものがあつて、詰り今の國歌である。少し寄り道をすると、この一首が國家の儀礼曲として正式に採用されたのは明治十四年。法的に國歌となつたのは百廿年後の平成十一年。元の歌を収めた『古今集』は延喜五年頃…十世紀初頭の成立だから、千年余りの歴史があることになる。

 少し説明を入れると、賀歌は字からも想像出來るとほり、目出度さ…ことに長寿を言祝ぐ歌を指す。千年前と云へば、死はちよつとした切つ掛け…天災、飢饉、それから惡霊(!)…でやつてくる厄災(『古今集』の僅か二年前に菅原道眞が怨みを抱いて死に、朝廷はそれから長く、かれの祟りに怯え續けた。平安人にとつて怨霊は現實的な問題だつたのである)だつたから、長命はそれだけで祝賀に値したと考へられる。

 歌自体は六づかしくない。前段の五七で"我が君"の長寿を祝ひ、後段の五七五は"千代八千代"を具体例で示してゐるだけのことで、わたしのやうに無學でも直ぐに解る。『萬葉集』からざつと百年、和歌はまだ複雑な技法を求めてゐなかつたのだらうか。

 

 さて。この辺からわたしの勝手な想像になつてゆくのですが、宜しう御坐んすか。宜しう御坐んすね。

 

 和歌を遡ると呪文になる。祈祷と云つてもいい。豊作を疫病の快癒を、或は吾が君の無事を祈り願ふ。それが社交の道具となり、ひとつの文藝へと移り変つたのが、我われの文學史であつて、それは技巧の(過剰な)發達とほぼ重なる。明治に入つて正岡子規が書簡形式で、貫之は下手の歌詠みと喧嘩を賣るまでそれは續いたのだが、そつちはまあいいでせう。では和歌の技巧とは何だらうと思ふのは当然の気分である。ごく大雑把に先づ本歌取りを挙げませうか。先人の歌を取ることで、自分の歌の幅を大きく拡げる技法。広い意味でパロディと呼べなくもない。もうひとつをどう呼ぶのかは知らないが、文字や言葉の持つ意味を二重三重にする方法がある。堅苦しいのは厭だから狂歌から例を引くと、太田蜀山人

 

 あなうなぎ いづくの山の いもとせを

 さかれて後に 身をこがすとは

 

一讀すれば鰻の蒲焼きを詠んでゐると解る。背を割くのだから江戸風なのだらう。

 併し"いもとせ"には"妹と背"が含まれてゐて…これは王朝時代の和歌で用ゐられた言葉遣ひ…、直前の"いづくの山"の女と男を暗示する。さうなると割かれるのは鰻ではなく恋仲と解り、詰り焦げるのは旨さうな蒲焼きではなく、恋慕の情といふことになる。儚いなあ。

 更に"いづくの山の いもとせを"には"山の芋"が隠されてゐる。当時の人びとは山ノ芋が変じて鰻になると考へゐたらしい。俗信を取り入れつつ鰻と山ノ芋といふ精力剤の双璧を共演させてもゐるわけで、そちらから見ると堪らなく愛慾的にも感じられる。雅俗の取りまぜ具合が、爛熟頽廃と呼びたくもなる名人藝ではありませんか。

 技巧の使ひ方としては極端なのは間違ひないし、その極端は狂歌の持つ遊戯性の強さゆゑに許される一面はある。が、蜀山人は和歌から學んだ事柄を誇張して使つた筈で、それらは言葉の用ゐ方を含め『古今集』まで戻ることが出來る。些か強引な気もするが、勝手な想像だからいいことにして、遊戯的な視線で"君が代"の一首、特に上の句を眺めてみる。國歌を遊びの目で見るなんて怪しからんと叱られるか知ら。

 

 先づ"君"である。國歌的に云へばオホキミ、即ち天皇陛下を示すことになつてゐるが、素直に讀めば"あなた"、もう少し厳密には詠み手が親愛の感情を抱いてゐるひとと解釈出來る。その"君"を受ける"代"は時間の意。先祖代々の代から解るとほり、相当の長期間と考へていい…字面を見ると。ところで"代"の訓みは"ヨ"なのは云ふまでもなく、"ヨ"といふ訓みには"夜"の字がある。君が代を"君が夜"と訓めば、續く"千代に八千代に"の"代"も"夜"と見なせるでせう。あなたの夜よ、末長く續きませ。と云つても何がなんだか解らない。賀歌と呼べないのは我慢するとして、そもそも夜の長さを願ふ理由なんかあるものだらうか。

 

 …と思つたら、あつた。

 

 当時の婚姻は通ひ婚であつたことを思ひ出したい。妻問婚とも云ふ。字から想像出來るとほり、日が暮れると男が女の家に行き、明け方前に帰る、さういふ形式。ほら、後朝ノ別れと云ふやつ。聞き覚えがあるでせう。ここで念を押すと、通ひ婚は毎夜、女の許へ足を運ぶわけではなかつた。新月の夜は通はないし、それ以外の日でも科学的に(!)吉凶の方向が決るので、望月の夜だからと云つて月明りを頼りに出掛けられるとは限らなかつた。それだけではなく、雲の流れ具合や風の湿り気といつた予兆で、邸から出ない日があり、出掛ける先がまつたくちがふ方向になる場合もあつた。さう考へれば、妹と背が逢へる夜は、ごく限られることになる。

 

 尤も我われのご先祖には、性的な禁忌が少かつたらしい。有夫の女の家に夜這つてもかまはなかつたし、処女性は大して重視されもしなかつた。なので"愛しい男が訪れない女の憐れ"といふ図式が成り立つかは疑念が残る。そこで改めて考へるに、"君が代"が詠まれた時期、和歌の役割は既に単純な呪言から社交へと変じてゐた。鰻繋りで云へば、大伴家持が石麻呂を揶揄つて、夏痩せに効果があるさうだよ、鰻を召し上がれと詠んだのは、延喜から二百年余り前になる。卅一文字で遊ぶ習慣は"君が代"が詠まれた頃には、既にあつたと見て誤りではないと思へる。何を云ふのかといへば、そこ…社交の場で詠まれる一首には冗談や仄めかしで本心を隠し、譬喩で暗示するといつた高級な技術が求められる。延喜の頃だと流石に未熟だつたとは思ふが、名を知られない詠み人が、さういふ技法を意識してゐた…意識出來るくらゐのひとであつたらどうだらう。

 詠み人はきつと女性である。男が女に、或は女が男に身を代へて詠む手法("やつし"といふ。現代ではムード歌謡と呼ばれる歌曲に見られますな)は無かつたかと思ふからだが、ここはあてにならない。その女性は既婚者で、月の夜に夫が訪れるのを待つてゐるのだが、男は方違へだの何だの理窟をつけて中々足を運んでこない。そこで

 

 あなたと共寝する夜が、長くながく續けばいいのに

 小石が嚴に変じて、苔が生へるくらゐ

 

さう思つたとしても、不思議ではなからうと思へる。ここで気になるのは、その既婚女性が若いのかどうか…新妻かどうかと云つてもいいが…で、さうだとすると、この一首は淋しさや孤獨感…露骨に云ふと、怨み言を示すことになる。併し詠み手を"女のヴェテラン"…男を知り、世間を知り、駆引きを知つた魅力的な女…と見立てれば、言葉の意味合ひは同じでも、奔放でしたたかな笑みを隠した皮肉に転じる。夫婦といふ形式を利用して呼び掛けつつ、わたしはわたしで恋をするから、と嘯くやうな感じ。

 そんな阿房な解釈はないよと、國文學の方面からお叱りが飛んでくるにちがひないし、またそのお叱りは正しい。わたしだつて、他のひとからこんな解釈を示されたら、無理やりだなあと苦笑を浮べる。ただ苦笑ひしながら、面白がりもする。一首の中に異なる心象を織り込むのが和歌だもの…前掲の蜀山人を思ひ出してもらひたい…そんな風に面白がつても許されさうな気がする。まあ名を残さなかつた歌人から、丸太の見立てはまつたくちがふよと一首を送られたら、大笑ひしながら、すまなかつたと頭を下げるだらう。その一首を詠むのが、"ヴェテランの女"だとしたら、こちらとしては寧ろ満足出來る。