閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

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 さう云へば厚焼き玉子について、腰を据ゑて触れてゐなかつた気がする。忘れただけかも知れないけれど、その辺りは曖昧なままにしておく。

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏と同じく、最初に食べた厚焼き玉子は親が作つてくれた。それ自体に味つけはされず(ひよつとしたら、ごく薄く塩は使つただらうか)、後から醤油なり何なりで調へた。

 今の目で見ると、焦げて堅くて、詰り薄焼き玉子を四角い巻物にしたやうなのが、幼い丸太が最初に食べた厚焼き玉子で、職業的な厚焼き玉子製作者から、礼儀正しく

 「それを厚焼き玉子と呼ぶのは、無理があるかなあ」

云はれても反論はしない。腹の底で母ちやんの玉子焼きはそんなものだらうと呟きはしても。

 

 だから初めてふはふはした厚焼き玉子を食べた時はびつくりした。いきなり美味いと感じたし、大根おろしと薑が添へてあるのもいいと思つた。

 もうひとつびつくりしたのは、砂糖を使ふのか、あまい厚焼き玉子があるのを知つたことで、肴になるわけでなく、こはんに適ふあまさでもない。東都で初めて口にして、大坂で食べた記憶は無いから、東京風なのだらうか。

 云つておくと、あまい食べもの(お菓子ではない)がきらひなのではない。薩摩芋や南瓜の甘みには寛容でゐられるからね。砂糖を用ゐるのが駄目なのでもなく、たとへば大學芋はお茶の時間によく似合ふ。

 併しあまい厚焼き玉子が、お茶と一緒が出てきたらどうだらう。手を拍つひとがゐても不思議ではないが、わたしならきつと困惑する。間違ひない。それとも小腹が空いた時、ちよいとつまめばよいのか。だとすれば、大根おろしや薑の立場はどうなるのだらう。

 

 要するに厚焼き玉子は食べたい。

 けれど甘いのは敬して遠ざけたくもある。

 

 では自分で焼くのは別にして、両立はどうすればいいかと散々考へ、註文の際に

 「あまい味附けですか」

と訊けばよいのだと、ごく当り前の結論に達した。何の話か解らないといつた顔をされたりもするが、そんな時は、塩つぱいのが好きなんですと續ければ済む。呉々もあまいのが厭だからなどと云つてはいけない。心配りとはさういふ態度を指すんです。それで甘いですねと応じられたら

 「塩つぱい仕立てに出來るでせうか」

さう頼んで、よ御坐んすと云つてもらへたら註文する。

 尤もわたしだけのルールといふか気分で云へば、予め味附けを訊いて、あはよくば変へてもらはうとするのは、如何なものかと思ふ。註文したこつちの予想とまるでちがふものが出てくるのも樂みではなからうか。

 

 かう書いて韮玉を思ひ出した。品書きに韮玉とあつたら、我が讀者諸嬢諸氏の大半は韮の卵とぢを聯想するでせう。わたしもさうである。以前、とある呑み屋で、その積りで註文したら、さつと茹でた韮を御浸しのやうにして、そこに卵の黄身を乗せた小鉢が出されて、ひどく驚いたことがある。黄身の端つこを崩し、韮にまぶしながらつまむと、これが旨くてまた驚いた。別の呑み屋の韮玉は葱焼きより少し厚いくらゐに焼き上げ、千切りキヤベツに被せて出してきた。こつちも驚いたが、矢張り旨いもので、確かケチャップを添へた、麦酒に恰好の仕立てだつた。出てくる前から判つてゐるのが惡いとは云はないにしても、こんな風にするのかといふ驚きは調味料の一種である。

 

 何の話だつたかといふと厚焼き玉子で、塩つぱいか甘いかだけで区切りを附けるのは、もしかすると損ではないか。率直なところ、砂糖を多用する技法は、我われの遠くないご先祖たちが、甘みに餓ゑてゐた名残りのやうに感じられて感心しない。とは云へそれを

 「あまい厚焼き玉子を遠ざける」

理由に結びつけるのは些か乱暴でもあつた。反省します。甘くて旨い厚焼き玉子もあることを信じたい。

 今のところは断然、塩つぱい厚焼き玉子に軍配を上げておく。卵だけでよく、出汁や牛乳を加へてよく、葱や韮やしらすを混ぜてもまた宜しい。ふはふはが旨いのは勿論、かつちり堅めもうまい。卵に下味があればそのままでいいし、醤油やぽん酢と大根おろし、味噌に辣油、或はチリー・ソースを使ふのも宜しく、おかずにするか肴かにあはせて、好みを撰べばよい。おかずにするなら醤油(乃至ぽん酢)でせうな。おにぎりとお味噌汁があれば立派な食事になるし、焼き蚕豆か鰯の塩焼きでも添へれば、池波正太郎の世界に浸れさうだ。

 

 唐突に不安を感じたのたが、厚焼き玉子は肴…酒精のお供になるのか知ら。葱入り韮入りしらす入りは兎も角、卵だけの厚焼き玉子で呑めますかと訊かれたら、(大根おろしと薑があれば話はちがふが)少々自信が持てない。

 だとすれば肴としての厚焼き玉子の魅力は葱乃至韮、或はしらす大根おろしと薑にありさうだとも思はれてくる。

 いや失礼。暴論ですね、これは。気取つた蕎麦屋には必ず厚焼き玉子が(豆腐のやうにやはやはしたやつ)があるし、それを肴にお燗酒をやつつけるのはいい気分だもの。それが葱乃至韮、或はしらす大根おろしと薑だけでは、その気分も半減するといふものだ。前言は撤回しなくてはなるまい。

 

 と云ひはしたものの、厚焼き玉子は矢つ張り、食事に出される方が嬉しい気がする。色々と考へ、書きもしたが

 ごはんにお味噌汁。

 お漬物。

 焼いた塩鮭。

といふ組合せが、厚焼き玉子に一ばん似合ふ。何のことはない、少年だつたわたしの見馴れた献立がこれなんです。魚は鮭ではなく鰈の煮つけが多かつたけれど、結局幼い頃に食べたものは、その頃の食べ方に戻る…落ち着くのだらうか。今もこの組合せは喜ばしいし、後は壜麦酒の一本もあれば上等で、大人になつたなあと思ふのは、かういふ時である。