閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

607 荒天を肴に

 尊敬する吉田健一の文章でも特に「羽越瓶子行」が好きで(中広文庫の『汽車旅の酒』に収められてゐる)そこに

 

 朝飯の途中で雨が降り出した(中略)この時の雨のように旅情を覚えさせてくれたものはなかった。もう誰も、本間美術館を見に行きましょうなどと言うものはなかつた。ルーヴル展が巡業していた所で、行きはしなかっただろうと思う。

 (途中を飛ばして)

 辺りの景色が東京の廻りと違っているので(中略)、誂え向きに雨が降ったり、雪になったりすれば、文学の話もしたくなるのである。

 

とある。いいでせう。わたしはすつかり痺れた。かうでなくちやあ行けないとも思つた。ルーヴルの藝術も本間美術館の収藏品も文學も解らないのに。

 だつたらどこに痺れたのかと云ふと、雨や雪の空を肴に呑んでゐる、呑み續けてゐる様がえらく恰好いいぞと感じたからだが、何故それを恰好いいと思つたかまでは判らない。痺れるといふのはさういふことだとここでは居直つておく。

 晴天の星月夜、皓ゝの明りを頼りに呑むのも惡い趣味ではない、とは(幾らわたしが野暮天でも)判る。判るのだがその場合、樂みは夜に限られる難点がある。別にそれで不都合は生じないと考へても不思議ではない。一方でそれはこまると感じるひともゐると思はれて、わたしはこちらに属する。

 

 晝間から、或は朝から呑んではならぬ。などいふ理窟は無い。毎日の習慣としてさうなつてゐるだけであつて、毎日ではない旅行に出たりすると習慣から外れるから、朝の特別急行列車で麦酒を呑み、ホテルで朝焼けを見ながらお酒を汲んでも気にならない。我ながらいい加減だと思ふ。

 旅行であれば一応にしても日乗外の時間といふ云ひ訳が成り立つ。詰りここにゐるのは巷間のおれではないと云ひ張れるので、呑んでも罪惡の意識は感じない。わたしの云ふ罪惡感は世間さまから外れてゐる気分くらゐの意。同じことを自宅…即ち日乗の中では實行に移しにくい。

 そんなことを気にしてゐたらいつぱしの呑み助にはなれないよと笑はれる可能性はあるとして、そんなことを気にしないのは呑み助ではなく酒精中毒者だと反論したい。呑みたい心持ちがあつて呑む切つ掛けがあつて、さてそれでは始めませうかと坐るのが矢張り望ましいのではあるまいか。

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 併し呑む切つ掛けを日乗の中で見つけるのは簡単とは思へない。日乗の晩酌は正直なところ世間から許される習慣の範疇だから、見方によつては惰性とも呼べる。感心しない態度だが、その反省は措く。

 その日乗で確實に昨日と今日が異なるのは空模様である。今日は快晴でなければ曇天雨天でも、その光の具合雲の具合風の具合のすべては昨日と必ずちがふ。その中で雲が重く垂れ込め、或は雨粒が窓を烈しく叩く日は好もしい。家事全般から見ると憂鬱といふか腹立たしさを感じもするが、裏を返せば洗濯だの買物だのを投げ出し、まあ呑んでもいいやと思はないだらうか。わたしは思ふ。

 では荒天こそ、旅行に出ない午后…晝…朝の喜ばしい肴なのかも知れず、いやわたしは大眞面目な顔で云ふんである。諦念をお供に隅々の窓を閉めて腰を据ゑれば、日乗から半歩はみ出して呑み出せる。尤もその場合、寧ろルーヴルや本間美術館の型錄だとか文學だとかが慾しくなつてくるのは間違ひない。吉田健一にはきつと呆れられるのだらうな。