閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

824 不思議ではない

 尊敬する吉田健一の随筆に、食堂車で"ハム・エッグスにソオスと辛子を塗り"たくつたのを摘みに、麦酒を呑む一節があつて、確か"(ウスター・ソオスは)西洋の醤油"なのだと續いてゐた。感心したのは忘れ難い。一ぺん試してみたいのだが、食堂車自体が稀になつてしまつた現代で眞似をするのは六づかしい。併し近いことなら出來なくもなくて、ハムカツを註文すればよい。

 以前にも書いたかも知れないが、気にせず云ふとハムカツはハムではなく、揚げ油とハムの脂と香りを纏つた衣が主役である。またその衣はウスター・ソースをざぶざぶかけて潤びらかすのがうまい。それで最近になつてやうやく、吉田の流儀で"辛子を塗りたく"つたら、もつとうまくなると気がついた。確かに"ソオス"でとろけた熱い衣に辛子の刺戟が加はると、麦酒や酎ハイの好もしいお供になる。

 気づくのが遅いと云はれるだらうか。云はれるだらうけれど、そもそもおれは辛子が好きではない。たとへばおでんにほんのちよつぴり辛子を添へるのがうまいと知つたのすら、ほんの二年かそこらのことなので(待てよ、併しソーセイジにはマスタードを欠かすわけにはゆかないと理解したのは遥か昔だつた筈だ)、辛子を塗つたハムカツの好もしさに辿り着いたのが最近でも、不思議ではあるまい。

 さておれはこれから、ハムカツで一ぱい、呑む。

 食堂車ではないのは悔しいけれど、残念なことに吉田の時代とはちがふのだ。