閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

945 酸つぱい

 『檀流クッキング』は、近代日本の文學が世界に誇つていい名著だと私は信じてゐる。美食といへばフランスにイタリー、それから中華圏だらうが、フランスもイタリーも中華圏も、現在に到るまで檀一雄を得てゐない。

 だから日本は凄いと話を進めるのは併し間違ひで、料理をせざるを得なかつた事情に、その樂みと食べる悦びを感じる舌があり、その樂みと悦びを言葉に出來る文學の才が、ひとりの男に宿るなんて、奇蹟ですからね。我がフランスやイタリーや中華圏の讀者諸嬢諸氏よ、気にすることはない。

 何の話をする積りだつたのだらう。

 この二ヶ月ほどの私は、食慾が丸で無い。麺麭と麺、たまにおにぎりをあはす程度。数日前、お弁当を食べたら、多すぎてうんざりした。齡を重ねた所為は認めるとして、胃袋が余程、草臥れてもゐるらしい。

 それで聯想したのが梅干しである。幕の内弁当の眞ん中にあると、嬉しくなるあの赤い粒。私は最初に食べる。塩つぱくて酸つぱいのが、疲労困憊の胃袋を巧妙に刺戟して、まことに宜しい。フランスもイタリーも中華圏も、この手の塩漬けを持たないらしい。食べる歴史のちがひと云ふべきか。

 梅干しに就て、檀は熱弁をふるつてゐる。

 「キュウリでも、ウリでも、スイカの食べ残しの中皮の部分だの、ミョウガタケ、キャベツ、セロリ、何でも、梅酢の中に一瞬漬け込むだけで、食欲不振の梅雨から夏にかけて、最適な日本式サラダが出来上がるのである」

 文章の説得力とは、かういふことを指すのだな。

 小説家は巧妙に、梅酢を使つた"日本式サラダ"から、梅干しを漬ける誘惑に讀者…我われを導く。その部分を引用したいと思つたが、触れた一章すべてを引かざるを得なくなる。私が幾ら図々しくたつて、限度は弁へてゐるから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には御一讀を願ひたい。詰り『檀流クッキング』を指してゐるので、話が冒頭に繋つた。

 

 食慾が無くなると、外で呑み且つ食べる機會も、ぐんと減る。呑むだけなら呑めはするが、摘まずに呑む習慣を私は持合せない。鶏の唐揚げやミンチカツは併し、胃の腑が受け付けてくれない。そこに、梅干しを使つた小さな一品があると嬉しくなる…といふより、安心する。檸檬ではいけない。あの黄いろい果實は、案外にしつつこい。それより鶏ささみで挟んだのを串で焼いたやつだとか、白身の魚(たとへば鱧)を湯通ししたのを叩いた梅肉で和へたやつだとか、或は檀の云ふ"日本式サラダ"を摘みながら、(黑糖)焼酎の水割りをゆるると呑むくらゐだつたら、酷暑の夜にも樂める筈で、フランスやイタリーや中華圏に、かういふ系統の食べものはあるのか知ら。