閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

986 玉子をおとしたの

 蕎麦に生卵を乗せたのを、月見と呼ぶ…のは正しくない。尊敬する吉田健一は、列車旅の途中驛で、立ち食ひ蕎麦を啜るのを、樂みのひとつにしてゐたらしいが、かれはそれを

 「かけに生玉子を落としたの」

と書いてゐる。あの批評家兼随筆家は、食べものに厳格なひとだつたから、"かけに生卵を落とした"だけでは、月見と呼び難かつたのだらう。

 確かにお月見の妙は、皓々と照り輝く満月より、薄つすら雲がかかつた時に感じられる。蕎麦でその妙を感じさせるとしたら、生卵だけでは物足りない。

 かう書くと老舗や蕎麦通は、本来の月見蕎麦はかうであると、親切に丁寧に熱意を持つて、教授してくるだらう。それは別の機會に拝聴するとして、とろろ昆布をひと刷毛、乗せるのが一ばん簡単だと思ふ。但しとろろ昆布と蕎麦は、もうひとつ相性が宜しくない。あの色みと塩気は、大坂風の饂飩に似合ふ。一方で大坂風の饂飩に、月見が似合ふとは云ひ難い。六つかしい。

 某日、偶さかありついたのが、上の画像、品書きは"玉子そば"だつたと記憶してゐる。見ての通り、半熟卵と若布が種。うまい名前を考へたと、感心した。これが月見蕎麦だつたら、すりやあ、ちがひますよと呟いたらうけれど。それですつかり平らげた後、画像を見直して、仕舞つた黄身を崩してから、撮るのを忘れたと思つた。