日本語が時に厄介なのは、ひとつと思つてゐた言葉が、ふたつ乃至それ以上に分解出來る場合があることです。たとへば躓く(ツマヅク)は、ツマとツクに分かれる。ツマは爪先のツマ。ツクは引掛りくらゐの意。或は稲妻(イナヅマ)もさうですね。これはイネとツマの合成で、どうやら我われのご先祖は、あのぴかぴかした現象で稲が孕むと信じてゐたらしい。序でながらここで云ふツマは男女を問はず配偶者を指す。萬葉集で見掛ける"吾が夫"を"アガツマ"と讀むのと同じ。かういふ例は幾らでもある筈で、中でもわたしにとつて親しみ深いのは肴である。前例に倣つてカタカナ表記にするとサカナ。眉をちよいと動かして
「サカナはサカナぢやあないのかな」
さう呟く讀者諸嬢諸氏がをられるかも知れない。知れないが肴の字を宛てる場合は話がちがつて、サカとナに分解出來る。別の字を宛てると酒菜。これなら判るでせう。詰り肴のひと文字が、お酒と食べものの両方を示してゐるわけで、酒の肴では意味が二重になる。鯛ちり鍋みたいなものか。ここで念を押すと、ナは野菜や菜つ葉ではなく、お酒と一緒に食べるもの全般…惣菜のナと考へるのが正しく、語感としては、つまみやあてに、もしくはおかずに近い。
森鴎外の『羽鳥千尋』には、明治末年の無名の青年だつた羽鳥の妹が、文字に対して強烈な好みを持つてゐたことが書かれてゐる。"檞"のひと文字がそれで、カシと讀む。凄いね。どうやつて手紙をしたため、或は日記をつけたのだらうと不安になるが、彼女に倣つて云へば、わたしは"肴"の文字を大きに好む。連想が働いて幸せな気分になれる。尤もこちらの連想は本來のそれより随分と広くなつてゐて、本來といふのは勿論、日本酒との組合せのこと。麦酒や葡萄酒、焼酎に泡盛にヰスキィは含まない。従つてソーセイジやザワークラウトやハムやチーズ、豚の角煮に諸々のちやんぷるー、チョコレイトの類は自動的に外れることとなる。
「ははあ」と勘を働かせ「日本酒にあはすなら、矢張りお刺身だものね」
さう納得される方がをられるかも知れないが、それは些か不正確と云はざるを得ない。魚介類を生で食べる習慣は、調理の歴史を眺めると、ほんの最近の發明なんである。なーに、ややこしい理由があつたのでなく、塩漬けにしたり、天日で干したり、さうでもしなければ、保存がきかなかつたのだから、仕方がない。尤もわたしくらゐの年齢になると、お刺身の脂は寧ろ邪魔つ気に感ぜられて、魚介を肴にするなら、焼き焙り、或は煮つけたりした方が好もしい。
併し魚介だけが肴であつた、ある筈はなく、ぐつと遡れば獸肉だつて、肴になつてゐたにちがひない。神州清潔ノ民である我われに限つて、そんなことはないよと反論される可能性はあるが、千五百年以上遡れば、その反論は成り立ちにくくなる。佛教が公的…詰り朝廷に伝へられたのが六世紀の半ば頃…印度の王太子が家を飛び出て千年ほどが過ぎた辺りですね。それ以前にも渡來人の集団内で敬はれてはゐただらうが、我が邦で本格的に受け容れられだしたのは、もう少し下つて六世紀末から七世紀の初頭にかけての時期。この頃の佛教は古來の神さまより効能のある術として扱はれて、野蛮で未開で無知蒙昧と罵り呆れるのは簡単だけれど、古來の神さまは嫉妬深いし、無闇に祟る存在だつたのだもの。何くれとなくお世話をしなくてはならない。新嘗祭なんて、収穫を寿ぐお祭りと同時に
「かうして感謝を捧げるんだから、次の年も収穫を、ひとつ、頼みますよ」
といふ願ひ…切實な…があつたにちがひない。収穫物と一緒に、綺麗な布や色とりどりの糸、調子の整つた唄。さういふ捧げ物をしたのは、神さまに祟られてはこまるからで、それは我われのご先祖にとつて、實効性のあるならはしであつた。
ここで我われは直会といふ言葉を思ひ出す必要がある。チヨクカイではありませんよ、ナホラヒと讀む。ややこしい考察を抜いて、ごく大雑把に云へば、神事が終つた後の宴席です。町内のお祭りの後で行ふ慰労会のやうな感じだらうか。捧げ物が下つてきて、それを呑み且つ食べる。先刻までは神さまのものだつたけれど、神事が終れば下りもの…人間のものである。清酒の醸り方が出來たのは、おそらく十世紀より少し前くらゐ…この世紀初頭から中期にかけて編纂された『延喜式』には十種以上のお酒が記されて、そこに清酒(スミサケと讀むらしい)もあるといふから、醸造法はそれ以前に一応の完成を見てゐたと考へるのが妥当だらう…だから、それ以前の直会で捧げられたお酒は噛み酒や濁り酒だつたと思はれる。その頃は殺生への厭惡はずつと薄かつた筈で、先に書いた収穫物には、穀物や魚、木の實だけでなく、雉や鶴、猪といつた獸肉も含まれてゐたにちがひない。きつと直会の日は火を贅沢に熾こし、下りものを焼いたり烹たりしたのだらうなと考へると、一種のバーベキュー・パーティーでせうね、今ふうに云へば。お酒はちと感心出來なささうな気もするが、中々に豪勢ですよ、これは。
大きく見れば、これ(もしくはこれこそ)が肴の原形である。佛教を経て、我われの食べもの…お酒にあはす食べものへの感覚は随分と変化して、獸肉をどうかうとは思ひ浮ばなくなつた。見方によつては貧相になつたと云へなくもないが、お酒と肴の組合せは、さういふ嗜好の変化にあはせ、非常にゆつくりと変化を遂げてもゐて、現代のお酒には現代の肴が適ふ。葡萄酒だつて焼酎だつて泡盛だつてヰスキィだつて、その辺の事情は変らない。酒席を豊かにするのが食べものなのは改めるまでもなく、その組合せに注意を払はないひとがゐるとしたら、そのかれ乃至彼女は、呑み助ではないからだと断定してかまはない。かう書くと
「いやだけど本当の酒呑みは」と疑念が呈せられることが予想出來て「塩や山葵があれば、十分なんぢやあないの」
さう云はれたら、確かに誤りとは云ひにくい。吉田健一に到つては、日本酒につまみは要らないとまで断言(待てよ、つまみがなくても樂しめる、だつたかな)してゐて、あのひとが云ふなら、説得力がちがふよ。併し塩や山葵でお酒がうまくなるなら、糠漬けや塩辛や干物煮つころがしがあれば、もつと旨くなるだらうと容易に想像がつく。わたしにすれば、そつちの方が有難くて、食べものの蔭が薄い酒席はもの足りなくてこまる。もしかして好みが上代的なのだらうか。だとしたら、分解出來る言葉に執着する気分にも、理窟が立つ。