閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

254 何故讀まれないのか

 かう題名をつけると、何だか憾み言とか愚痴めく感じもされるが、またさういふ気分でないとは流石に云ひにくくもあるが、全体としてはそんな積りではない。この手帖の訪問者乃至ページヴューが少ないのは事実だから、そこを認めるのが先づ前提である。但しわたしは数が正義だと主張する者ではない。百万の讀者がゐても、その悉くが阿房だつたら、その百万は實質を伴はないぶらりとした数字といふことになる。そんなら百…いや十の賢明な讀者諸嬢諸氏に恵まれる方が幸せにちがひない。

 といふのは理窟である。

 理窟としては解るんだが、矢張り訪問者だかページヴューだかが少ないと淋しいもので、これは我が儘に過ぎない。ウェブログを書いてゐるひとなら、この我が儘は漠然とした感覚として、共感してもらへさうに思ふ。かう云ふと、百万の讀者(實質なのかどうかはこの際目をだから瞑つてもいい)を持つ筆者から

「それはあなた、讀者を考へてゐないんでせう。だからいけないんだよ」

と指摘されるかも知れない。尤もだと認めるのに吝かではないが、併しそんなら人気(らしい)ウェブログを讀んでも、殆どの場合、面白くも何ともない…露骨に云へば詰らないのが不思議に思へる。ああ、百万の讀者を誇る筆者よ、そこで君の讀み方がいけないのだと云つてはならない。わたしの感想は讀者の立場なので、この場合はその面白く思へないウェブログの筆者の責に帰す指摘または發言をしなければ、筋が通らない。

 一般論めいた考察は、眞面目なひとに任せ(尤もその“眞面目な考察”は、屡々、役にも立たない“ハウトゥ”に陥るとは指摘しておかう)、話はこの手帖に絞る。

 何が考へられるか知ら。

 資料または史料的な値うちが丸でない点が最初に挙げられるだらうか。たとへばカメラの話を書くとして、よく見掛ける“新品を買つたので開封”なんてしたことがない。前機種との比較も性能そのものの評価もまた同様。更に云へば、古い機種をカメラ史にどう位置づけるか、などといふ話も書かない。これでは讀みたいと思はれなくても、納得出來る。

 視覚的な花やかさに欠ける点も挙げられる。画像をあまり使はないのは、意図的なのだけれど、文字がびつしり並んでゐると、躊躇を感じるひとがゐたつて、責める積りにはなれませんよ。以前から何度か触れた筈だが、讀書は一種の惡癖なのだから、文章に重きを置くウェブログに厭惡を感じられても不思議と呼ぶには及ばないでせう。

 ここで、“讀者を考へてゐない”といふ指摘が正しいのか、改めて考へてみたい。この場合、疑問なのは何をもつて“讀者を考へ”てゐることになるかといふ点で、これがどうも解らない。仮に多くのひとが関心を示してゐる話題を取り上げるのがさうだとすれば、多くの筆者が話題に取り上げてゐる筈だから、わざわざ踏み込むのに何かしらの意味があるのだらうか。百万の筆者が残らず愚劣な取り上げ方をすれば、事情も異なるだらうが、實際はさうでもない。それにその手の話題は流行でもあるから、考へを纏め、書くのを纏めるのに時間が掛かるたちのわたしには、まつたく不向きでもある。では取り上げる話題がきはめて少数のひとにしか判らないのが理由か。併しわたしが好んで取り上げるのは、呑み喰ひや本やカメラの話だから、その批判は当らない。

「だつたら、どこにある何といふお店で、これこれを食べました、などと書くのはどうでせう」

さう親切な提案をしてくれる方がゐないとも限らない。親切には感謝するが、わたしが書いて何か値うちがあるかといふ疑問が残る。文章で何が六づかしいかと云つて、食べものの味を伝へる技術がその筆頭(後はさう、批評と惡くちだらうね)で、ウェブログ食レポとか呼ばれる分野のそれは全滅…讀む価値がないと断定してもかまはない。食べものの味には香りや彩りや盛りつけや器、たれが一緒でどんな話をしたか、何を呑んだかが全部含まれるので、それを精緻に受け容れ、言葉…文字に置き換へるには、文章の能力だけでなく、味覚だけでもなく、視覚や嗅覚、触覚、聴覚のすべてが求められる。プロフェッショナル(文章を書いて口を糊するひとくらゐの意味である)ですら潰滅的なのに、わたしの手に負へる筈があらうか。なので食べものを取り上げる場合、さういふ方向からは手をつけない。それがわたしに云はせると、“讀者を考へ”た姿勢に思へるからである。

 「となつたら後は」としたり顔をするひとが出てきさうな予感もされなくはなくて「仮名遣ひが駄目なんだよ、きつと。だつて讀み辛いもの」

さうだらうか。甚だ疑はしいね、それは。この手帖を文語で書いてゐたら、まだ説得力を感じもするが、そんなことを云ひ出したら、夏目漱石森鴎外や内田百閒や永井荷風谷崎潤一郎泉鏡花太宰治芥川龍之介は、あなた方の手の届かない作家といふことになる。それに現代仮名遣ひは歴史的仮名遣ひを基に成り立つてゐる。現在仮名遣ひの文章を讀めるなら、歴史的仮名遣ひを讀むにも不自由はしませんよ。更に云ふなら、文章の讀み易さと仮名遣ひの関係は直接的ではない。内田百閒いはく、牛肉には堅いのと軟らかいの、うまいのとまづいのがあつて、それぞれに関係はないさうで、この場合同じことが云へる。事の次いでだから厭みを云ふと、この手帖はかなり平易な言葉遣ひだから、現代仮名遣ひと大して変らない讀み易さの筈で、首を捻るのはそもそも文章を讀むのに不向きなひとである。

「それでも不馴れはあるよ。現代仮名を遣ふくらゐの気配りは、あつてもいいんぢやないの」

眉を顰めて呟くひとがゐるのは不思議でないが、何故さういふ気配りの必要があるのだらう。わたしが歴史的仮名遣ひを常用するのは、何より尊敬し私淑もする丸谷才一先生の眞似ではあるが、この方が、自分の思ふところを書き易い…馴染んだと云つてもいいのだが…のも大きな事情なので、それを書きにくい表記にする理由が見当らない。讀者であるわたしが、筆者であるあなた方に、歴史的仮名遣ひで書いてくださいよと求めないのと同じである。と云ふより、その表記も含めて[閑文字手帖]だから、馴れて頂きたいと云ふ外にない。我が讀者諸嬢諸氏よ、これをば傲慢と呼び玉ふな。

 とは云ふものの、ここまでの流れは些か…訂正、非常に具合が惡い。讀まれない原因は、取り上げる話題でなく、またそれを書く形式でもなささうでもある。となると、何が残るだらう。わたしの文章が詰らないといふ可能性ではあるまいか。繰り返すとこれは非常にまづい。文章の巧妙を心得てゐると云ふほど図々しくはないにしても、讀まれない程度に酷いとまでは流石に認めにくい。ただ認めにくいを押し通すとしたら、更に別の要因を探さねばならなくなつて、それにもまた無理がある。具合が惡くまた認めにくいからと云つて、(どうやら)事實(らしい点)を退けるのは褒められぬ態度でありませう。寧ろ下手糞なのを…詰りこれが讀まれない理由だと認め、認めながら精進を重ねるしかなささうである。先は果てない。