閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

264 酒と本と

 当り前に考へて呑みながら本を讀めるものだらうか。呑む以上は醉ふもので、醉へば頭の働きは鈍くなるもので、頭の働きが鈍くなれば、本の中身は入つてこない。それが理窟といふもので、貴女やわたしの責任ではない。何しろ理窟なのだからね、仕方ないさ。

 併しそもそも呑みながら讀みたいのかといふ疑問はある筈だが、ないわけではないだらうなと応じておく。少なくともわたしの場合、偶にさうする。理由があつての行動でないのは勿論で、詰り何となくさうすることがあると云ふ外にない。尤も呑み始めてから呑み終るまで、延々と讀み續けられるわけもなく、いつの間にやら本はどうでもよくなる。だから翌日になれば、その讀んだ筈の本の中身は、殆ど記憶に残らなくて、これもまた理窟に適つた結果であらう。

 なので呑みながら本を讀むとしたら、さういふ状態を前提にするのがいいのだらうと思ふ。と云つて呑みながら讀む本があるのだらうか。酒と本なら酒が優遇されるのは人生の優先順位なのは云ふまでもなく、だつたら本なんぞはどうだつていいさとなりさうで、ただそれが結論ならこの稿は續かない。なので無理やり續けると、長篇小説は向かない。短篇でも六づかしいだらうな。小説は作者の好き勝手を掴なまくちやあならないから、醉ひにあはせるのは無理がある。醉ふのだから學問的な本も困る。學問的な本でも實に面白い一冊はあるのだが、學問的で文章も優れてゐる本は稀でもある。余程でなければ酒の場に連れ出したいとは思ひにくい。

 だとすれば矢張り随筆が望ましい。但し丸谷才一のやうに複雑なレトリックを駆使した、長めの随筆だと、こちらの頭が追ひつけない。するりと讀める気持ちになれるのがいいので、ただここに田辺聖子の“カモカのおつちやん”を挙げるのはもしかすると、非礼かも知れない。わたしは文章で方言を使ふのには、好感を持たない…文章言葉としては不完全だからね、何しろ…のだが、あのひとが使ふ関西方言はまことに自然なもので、讀みながらどうすればあんな風に書けるのか、不思議に感じられる。我われは眞似してはいけないけれども。

 話が逸れさうですな。

 元に戻しませう。

 呑みながら讀むのだから、長い文章は避ける方が無難である。また生眞面目な内容も避けたい。もつと云ふと、呑む気分を佳くして呉れる文章が望ましい。さう考へると、上述の田辺は勿論として、薄田泣菫斎藤緑雨を挙げてもいい。緑雨は些か毒気が濃いから、讀者を撰ぶかも知れないけれど、適ふひとならにやにやしつつ、お代りを頼めるだらう。併しもつと好もしいのは飲み食ひに関はる本で、但し撰ぶのはかなり六づかしい。

(その辺の本屋に幾らでもあるでせう)

と考へるひとは、一ぺんその辺の本屋を覗いてご覧なさい。撰べる本が余りに少ないと驚くことはわたしが請け合ふ。

 とは云ふものの、これを不思議と呼ぶのは正しくない。文章に取り上げる題材の中で飲み食ひの話は、相当に難度が高い。食べものの味は見た目(ここには盛りつけや食器や部屋の燈り、調度品も含まれる)や香り、歯応へ、舌触り、喉越しといつた條件の綜合だから、それらを精密に感じ、精密に感じたところを文字にしなくてはならず、かう書けばわたしの云ふ難度の高さを、きつと想像してもらへるでせう。わたし如きに無理難題なのは当然ながら、職業的な文章家にとつても矢張り難問で、本屋で色々手に取つて、結局は一冊も撰べないのは、さういふ事情の所為で、貴女が惡いわけではありません。

 そんなら飲み食ひに関はる本で、推薦出來るのは何なのだといふ疑問が、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の頭に浮ぶでせう。尊敬する丸谷才一は『檀流クッキング』(檀一雄)と『私の食物誌』(吉田健一)と『食は広州に在り』(邱永漢)を戰後に書かれた食べもの話の三大名著に挙げてゐるが、邱の本は少し落ちる。わたしなら代りに丸谷の『食通知つたかぶり』を入れたいし、『味覚極樂』(子母澤寛)を追加してもいい。ここで念を押すと、古典中の古典と云へるサヴァラン教授の『美味礼讚』を挙げないのは、呑み屋で頁を捲るには少々きつい美酒だからで、これは家でちよつと贅沢な葡萄酒とハムとチーズと奢つて讀みたい。反面、食通として名高い北大路魯山人池波正太郎は入れたくない。魯山人や池波じしんがが食通と呼ばれることをどう思つてゐたかは解らないが、その文章にはどうにも食通の臭みが感じられて、腹立たしくなつてくる。わたしの好みだから、信用されるのは困るけれども。

 ただここで問題になるのは、呑み屋で讀む本といふ前提であつて、檀や吉田の食べもの話は讀んで實に面白いのは、再びわたしが請け合ふところなのだが、文章の出來が佳すぎる。たとへばおでんを肴に呑みながら


「一体に蛸というのは烏賊のような甘味もなくて、それではどんな味がするかと言われても返事のしようがない気がするが、そこになにか特色があるとすれば味よりも歯触りでこれを柔かく料理することでその歯触りも生き、そしてそうすることでどういうのか煮汁の味が中にも染み込んで確かに蛸であって蛸であることが楽めるものが出来上る」

[大阪のいいだこの煮もの]


といふ一文を目にすると、おれの目の前にあるのは果して本もののおでんか知らと疑念が湧いてくるのと同時に、銅壷で煮える飯蛸が恋しくなつてくる。或は(こちらは引用を控へるが)檀一雄が描く皿鉢の豪奢を讀めば、何がなんでも今すぐ土佐に飛んで皿鉢にありつきたいといふ慾求を我慢するのは、宗教的な刻苦を凌ぐのではないかと思はれる。身も蓋もなく云ふと、まつたく傍迷惑な話なのだが、それくらゐ…讀みながら空腹でなければ食慾を刺戟するくらゐの文章(残る短い生涯で、一ぺんでも讀者にさう感じてもらへる一文を草することが出來れば、ウェブログを止めるのに躊躇はないんだが、これはこの稿と別の話)でなければ、飲み食ひの本は讀む甲斐がない。だつたら(改めて)讀まない方が余程にましぢやあないかといふ話になりかねず、なので讀むとしたら、上に挙げた本を推薦するとして、呑み屋に持ち出す前に少なくとも一ぺんは讀み干してからにしたい。それなら何とか我慢出來なくもないだらうから。