閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

258 韮と生卵

 ノムと書く時、どの字を宛てるか、半分無意識に使ひ分けをしてゐたことに気がついた。

 水は飲む。

 お茶と煙草は喫む。

 酒精になると呑むとなつて、正しい表記なのかは知らないが、こちらの気分には適ふ。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にもきつと、気分に適ふ使ひ分けがあることでせう。

 さて。

 今回は飲むではなく、喫むでもなく、呑む…正確には呑むの更に後の話題。

 呑むといい心持ちになる。

 それ…そこまではいい。併しどうかすると、いい心持ちを過ぎて仕舞ふことがあつて、さうなると次の日、ひどい目にあふ。詰り、フツカヨヒ。

 ひとによつて症状は異なるのだらうが、わたしの場合だと、頭がひどく重くなつて、勿論食慾なんか丸で感じない。

 そこで問題になるのは、宿醉ひになつて仕舞つた場合に、一体何を口にすればいいのかといふことで、中々の…いや寧ろ非常な難問であらう。酒精は有史以前から我われの側にあつて、宿醉ひの歴史もまたさうにちがひない。数千年に渡るおつきあひの中で決定的な解に辿り着けてゐないのが、その證と云つていい。

 何だか話が大きくなつた感じがされるが、これは、そもそも宿醉ひにならない程度に呑めばいいんですよといふ指摘を防ぐのが目的である。たれの言葉だつたか、歴史は螺旋状に繰り返す。

 様々の方法がありますな。

 有名なのは卵にトマト・ジュースとウスター・ソースのカクテル。西洋人は妙な工夫をするものだ。効果のほどは兎も角、宿醉ひの頭でこんなのを用意するのは面倒で仕方ない。気の利いた執事を雇へる階級の飲みものだらう。

 変り種で云へば、印象派の絵画がいいといふ説がある。心が鎮まるのがいいのださうだが、その為には美術館に足を運ばねばならない。複製を飾ればいいのか知ら。併し頭を上げるのも勇気が要るのだから、これも六づかしい。

 伊丹十三は冷たくて適当に脂つこい麺がいいと書いてゐた。解る気がする。冷したぬきそばや棊子麺が似合ひさうで、素麺に鶏のそぼろを散らすのもまた宜しからう。これくらゐなら、自分でも何とか用意出來ると思へる。

 その連想で云ふと、味噌汁もいい。種は豆腐と刻んだ油揚げ。宮崎風の冷や汁もいいし、水餃子もいい。尤もこの場合、事前にある程度の準備が必要で、宿醉ひを前提に呑む阿房がゐないのを思ふと、無理が大きさうである。たれか作つて呉れたら安心して大醉出來るのだが。

 ここまで書いた以上、何かもつとよささうな食べものがあるのだらうと、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏はすすどく予想するでせう。その通り。

 韮に生卵。

 吉田健一いはく、温室育ちの韮に生卵を掻き混ぜて食べるのだといふ。[羽越瓶子行]を讀むと

「二日酔いの朝の生理的な欲求は、この韮と生卵で微妙に、そして完全に」

満たされ、更に續けて

「酒の疲れが押し返されて行くようで(中略)、既に飲みたくなっていれば、これがいい肴になる」

と念を押す。この韮がどんな具合で(ただざくざく切つただけなのか知ら。それにどれくらゐの量を使ふのだらう)、味つけに何か工夫があるのか、その辺はさつぱり解らないけれど、韮と生卵の買置きがあれば、どうにかなりさうでもある。

 なんだ、韮玉煮か韮玉焼の手抜き版ぢやあないのと笑ふひともゐさうだが、そんなことは些細な話でなければ言ひ掛りなので、宿醉ひの日に涼しげな小鉢でかういふのが出されたら、きつと嬉しいにちがひない。

 本当だらうか。

 吉田の云ふ宿醉ひが、わたしを陰鬱にさせる宿醉ひと同種かの保證は無い。吉田の旅行に屡々同道した観世栄夫の文章を讀むと、實際の吉田は非常に繊細な気配りを欠かさないひとであつたといふから、大醉ではなく、ほろ醉ひが長くながく續いてゐたのではないか。無理をして同種だつたと仮定しても、程度の相違がある。宿醉ひを感じながらも、呑みたくなつてくるとしたら、それは宿醉ひではなく、前夜からの醉ひが續いてゐるだけのことで(詰り大醉ではなくほろ醉ひ)、いや非難するのでなく、羨んでゐるのだ。汽車に乗つてから呑み始め、到着してから料理屋で呑み、宿に入つてから呑み、醉つたままで朝を迎へられるのは豪儀だし、そこに韮と生卵があれば、豪儀なひとなら大笑ひするだらうとは、疑ふ余地がない。確かにこの樂しみがあるなら、宿醉ひを狙ひたくもなつてくる。

 尤も吉田の随筆によると、韮と生卵を堪能出來たのは酒田に限られたらしい。勿論けふはしたたかに呑むぞと決めたら(前述の通り)、その前に韮を刻み、卵をば買つてきて、後は混ぜるだけにしておくのも方法である。方法ではあるが、かういふ樂しみは、汽車で居酒屋で旅館で呑みに呑んだ翌朝に出してもらつてこそ、満喫出來るもので、だとすれば、どうしても酒田行を検討せざるを得なくなつてくる。この場合の難問は、坂田へ行く時間やお小遣ひではなく(いやそれも問題なのではあるが、解決が不可能な問題とは呼べない)、[羽越瓶子行]は昭和三十年の發表の点で、かれが堪能した韮と生卵を我われも果して味はへるのか、甚だ不安が残る。