閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

330 伝統蛍烏賊

 蛍烏賊について辞書を幾つか調べた上で、ざつと纏めると、大体下記の如くになる。

 

◾️ツツイカ目 ホタルイカモドキ科に属するイカの一種。胴長六から七センチメートル。体表に数百の発光器を持つ。食用。

◾️日本特産。

◾️分布は本州中部以北の日本近海沿岸。

◾️晩春から初夏(五月頃)の産卵期には群をなして沿岸を浮遊する。また産卵の為に海岸近くまで押し寄せた時は、海岸が明るくなるくらゐに光る。富山県魚津市付近の群遊海面は特別天然記念物

◾️別名はマツイカ、コイカ。春(晩春)の季語。

 

 蛍烏賊なのに属するのがホタルイカモドキ科とは知らなかつた。何となく、をかしい。モドキではないホタルイカもあるのだらうか。

 もうひとつ。特別天然記念物に指定されてゐるのは、富山県魚津市付近の“群遊海面”であつて、蛍烏賊そのものではないことに注意したい。蛍烏賊自体が指定されてゐたら、我われの酒席に、あの可憐な烏賊の姿は見られなかつた。

 

 因みに云ふ。富山県滑川市には、[ホタルイカミュージアム]といふ建物…施設があつて

https://hotaruikamuseum.com/museum

併設されてゐるレストランでは蛍烏賊のお刺身、天麩羅、フライ(サラド仕立て)、酢味噌和へ、沖漬けに一夜干しなぞを食べることが出來る。ただお品書きを見る限り、お酒の品揃へは随分と貧弱なのが惜しい。富山には旨いお酒が色々あるのだから、ミュージアム値段でもかまはないので、用意するのが筋ではないか知ら。

 

 かう書くわたしが蛍烏賊を好んでゐるとは、直ぐに判るでせう。明々白々といふ熟語の例文に用ゐてもらひたい…ここで余談ひとつ。もしかすると文章を書くひとにとつて、自分の文章が辞書の例文に採り上げられるのは、密かな栄光(のひとつ)ではなからうか。閑な出版社が小説家や随筆家に訊ねれば、一冊の本になりさうに思ふ。余談終り。

 残念なことに蛍烏賊は生で食べられない。沸騰したお湯で三十秒以上加熱すること。或は零下三十度以下で四日以上保存した後、内蔵を抜いてから食べる。旋尾線虫といふ寄生虫の一種がゐるからで(加熱か冷凍で処置で死滅する)、まことに尤もな対処である。蛍烏賊は好もしいが、旋尾線虫は好もしくないもの。

 

 ではどんな食べ方がいいのだらうと思つたら、[富山県ほたるいか協会]といふ信頼に値しさうなウェブサイトの“おいしい食べ方レシピ”に

http://www.hotaruika-toyama.com/recipes

“大ベーシックレシピ!酢味噌あえとお刺身/ホタルイカの最もポピュラーな食べ方、酢味噌あえとお刺身のレシピです”とあつて、色々の献立が紹介されてゐる。協会名は平仮名ほたるいかなのに、そのレシピではが片仮名ホタルイカなの不思議だが、八釜しいことはまあ、云ひますまい。

 ひと渡り見るに、矢張りその“大ベーシックレシピ”が一ばん旨さうである。サラドやスパゲッティやグラタンや焼そばが不味さうとは云はないとしても、蛍烏賊が主役になつてゐないのは物足りない気がする。勿論その工夫には敬意を表するし、食べた途端に掌を返すかも知れないけれど。

 

 掌は今のところそのままで閑文字を續けると、富山の沿岸に住んでゐない我われにとつて、一ばん馴染み深いのは、沖漬けと酢味噌和へかと思はれる。どちらもありふれてゐるなあと苦笑するのはかまはないが、ありふれてゐるのは、それが確立された調理法だからで、確立されたのはそれが旨い食べ方…少なくともさういふ理解が成り立つだけの時間があつた…だからだと考へる必要はある。所謂“定番料理”がさう呼ばれるには、さうなるだけの旨さだけでは足りず、それが拡がり定着するまでの時間を要するもので、かういふ理窟を纏める為に伝統といふ便利な言葉がある。

 

 堅い口調はやめませう。蛍烏賊のやうな柔軟さが大事…といふところで思ひ出したのが、その一夜干しで、これは旨い。わたしが食べたのはお酒の試飲会で提供された程度のものだが、それで旨かつたから、魚津で食べたら、もつと旨からう。

 蛍烏賊に限らず、魚介…魚介だけではなく獸肉もさうだが干物はうまい。

 と云つては身も蓋もない。確かに鯵や鰯は云ふに及ばず、また何年か前に雪の熱海で食べた鯖の干物は旨かつた。食べたことは無いが、金目鯛や帆立だつて旨いにちがひない。干すのは詰るところ凝縮である。最初は長期の保存が目的だつたのが、喰つてみたら旨いと解つたので、工夫に工夫を重ねることになつたのだらう。健全である。併し干物全体に話を広げると、何がなんだか解らなくなる。ここでは蛍烏賊から視点を外さないことにしますよ。

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 蛍烏賊に視点を置き續ける理由は、画像が示す通りで、お品書きには“蛍烏賊の干物”とあつた。見逃す手はない。それでつまんでみると下拵へがどんなだか、味醂干しではないかと思へる味と歯応へでうまい。こんな風に書くと、厳密主義の食通から、時期がどうかうと指摘されるかも知れない。知れないが、水揚げの後、冷凍して輸送されたにちがひない蛍烏賊である。八釜しいことを云はなくてもかまふまい。

 但しその旨いは蛍烏賊自体といふより、お酒を引き立て、お酒に引き立てられる旨さではないかと思へた。それが非難する積りはなく、寧ろわたしの頬を綻ばせる相性の好さであつた。世の中にはさういふ食べものが確かにあるもので、さういふ食べものになるまでの積み重ね…詰り洗練もまた、伝統の二文字に集約出來る。

 

 そこで気になつたのは、蛍烏賊を葡萄酒にあはせられないかといふことで、推測の域を出ないけれども、六づかしさうに思はれる。烏賊そのものが葡萄酒と適はないわけではない。西班牙にはプルピートスといふ、“烏賊の肉も肝も墨も何もかも一ぺんに炒めた”料理があるさうで、仕立ては大蒜と唐辛子とバタ。強火で一気に火を通すのがこつだといふ。旨さうですな。尤も西班牙烏賊を蛍烏賊式の味醂干しにして旨いかどうかと同じく、蛍烏賊をプルピートスにして旨いのかといふ疑問は湧いてくる。[富山県ほたるいか協会]に頼んで、試してもらはうか知ら。サラドやスパゲッティで蛍烏賊を試すのだから、伝統的ではありませんと断られることにはならないだらう。