閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

511 起す

 厳密な定義附けな表示についてはややこしいから省くとして、泡盛で三年以上、貯藏したものは古酒…"くーすー"と呼ばれる。古酒だと無愛想なのに、くーすーだといかにも旨さうな響くのは不思議だが、そこが言葉の妙なのだらう。

 と書いて不思議に思ふことがある。我が國の酒精はお酒…日本酒と焼酎、それから泡盛に大別出來るが、いづれ

 「長く保存してから呑む」

習慣は無いのではないか。わざわざ古酒と呼ぶのが間接的な證で、古酒といふ言葉がいつ頃成り立つたかは兎も角、成り立つたのは、それが"特殊な"醸り方であり保存法だ(つた)からで、詰り我われのご先祖は、蓄へて呑む習慣を持合せなかつたらしい。葡萄酒やヰスキィを思ひ浮べると何だか奇妙に感じられる。

 別にご先祖に堪へ性が無かつたわけではなからう。酒精はその土地の風土にあはせて育つもので、さういふ事情があつたにちがひない。ではどんな事情があつたかと考へるに、長期保存の技術が低かつたのではなからうか。もつと云ふなら気候として困難であつたかとも思へる。

 適度に寒く、その寒さが年中一定する場所。

 それだけでよければ、國内にもあるけれど、醸造所蒸溜所からの距離までを考慮すると、途端に無理が生じる。さういふ無理は酒醸りの最初に生じない。日本酒を例に挙げると、近世に入るまでは四季醸りと云つて、年中の醸造だつた。中でも寒造りと呼ばれる冬の醸造が特に旨かつたのは想像するまでもない。さうやつて醸り方が調つたのは結果であつて、元を辿ると長期に渡つて貯藏するといふ發想自体、持合せなかつたと考へる方が妥当かと思へる。

 併しそれだと、泡盛焼酎のくーすー…古酒を特別視する、したくなる理窟が立たない。ヰスキィの蒸溜所を見學した経験だと、あの貯藏庫は素晴しい香りで満たされてゐて、馥郁といふ少し古めかしい言葉がよく似合ふ。その馥郁が樽に詰められて眠るヰスキィに由來するのは改めるまでもなく、それを琉球や薩摩の藏人は知らなかつたのだらうか。

 實際、泡盛焼酎を長く寝かしたのはいい。ヰスキィもさうだが、必要な香りや舌ざわりや喉越し、詰り味はひだけが残つてゐる。かうなると旨いまづいは通り越してうまい。ヰスキィだと木の樽に入れて、ひとつ蘊蓄を披露するとあの樽に接着剤は使はれてゐない。丹念且つ頑丈にかしめるので、職人の技術は凄い。それでも三年五年十年と寝かす間に少し計り減つて、それを"天使の取り分"と呼ぶ。洒落た呼び方だなあ。琉球にも薩摩にも天使がゐなかつたから、寝かす習慣が出來なかつたとも思へないけれど…それとも甕に容れて、取り分を用意しなかつた所為かも知れない。

 ところで蒸溜酒は寝かしても元の味は残る。惡いと云ふ積りではなく、元の味にある骨格が純化した感じがするといふ意味で、日本酒や葡萄酒では事情が異なる。さう云へば随分と以前、十年以上寝かした日本酒を試飲する機会を得たが、それは濃密な琥珀いろの液体だつた。兎にも角にも酒精なのは解るとして

 「果して日本酒なのだらうか」

と不思議に思へるほどであつた。實際含んでみると、紹興酒聯想させる味はひがされ、正直なところ、口には適はなかつた。葡萄酒だと精々数年のヴィンテージしか呑んだ経験は無く、ただそちらはえらくうまいものだと思つた。感想の方向が反対なのはさて措き、時間が味を劇的に変化させる点は共通してゐる。さう云へば日本酒には濁り酒があつた(葡萄酒にもあつた筈だが)のを思ひ出した。

 ごく大雑把に濁り酒は醗酵が續いた状態である。最近の酒藏でも新酒の時期に限られた量を出すが、原則的には買ツタ開ケタ呑ンダでなくてはならず、ひと晩で味はひは別ものになる。長短を問はず保存を考へる以前の話であつて、醸しては呑み、呑んでは醸す繰返しだつたらう。それが当り前だつたのなら、子孫である我われが、じつくり寝かした味を歓びにくくなるのだつて、寧ろ当然の結果であらう。濁りを取り除いた澄み酒が醸れるようになり、火入れをして保存に耐へられるだけの技法が成り立つても、千年近く續いた味はひ方が一ぺんに変る筈はなく、またそれが幸か不幸かの話にならないのは云ふまでもない。

 ここまではまあ自分でも(一応は)納得したとして、では何故"くーすー"だの寝かすだの云ひ出したのかと、ここは自分でも疑問が残る。

 それで過日、某所で栃木の[鳳凰美田]と、岩手の[月の輪]を呑む機会に恵まれた話になる。美田が旨いのは経験的に知つてゐたが、[月の輪]が生酛純米なのに、たいへん穏やかな呑み口だつたのには一驚を喫した。かういふお酒もあるのだなところころ歓んだのは云ふまでもない。その一方頭の隅で、葡萄酒のヌーヴォみたいに宗教的な扱ひ…あれは農民のお祭りである…は兎も角、我われのやうに新しい酒…時を経たとしても、精々がひと夏を越した"秋あがり"くらゐか…を呑むのを当然とするのは

 (もしかすると珍しいのではないか)

そんな風に感じたらしい。曖昧な書き方になるのは、ころころ歓ぶのが優先だつたからで、併し頭のどこかに、微かな疑念があつたらしい。

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 考へる内、じつくり眠らせたお酒で、酒席を満喫したいと思つたが、難度が高いね。何しろ我われはさういふ醸り方の一ぱいを前に、何をつまめばいいかといふ経験が少すぎる。わたしの好きな焙つた厚揚げや酢のものより、家常豆腐のやうに色濃い味でないと、受け止めるのが六づかしからう。念を押すと家常豆腐は酢豚の豚肉が豆腐に置き換つた感じの、おそらくは臺灣料理。實にうまいものだが、気らくに食べられない。比較的にしても身近さうな食べものを撰ぶなら、そぼろをたつぷり使つた熱いあんかけやら、肉塊を味噌で煮込んだのやらだらうか。或は鰻の佃煮…それより穴子はもつとよささうな気がされる。牛蒡なんぞと一緒に甘辛く煮詰めたたれで、山椒を効かせたやつ。いづれにしても小皿小鉢で御膳ひとつにちまちま纏まるくらゐで十分かと思へる。尤もこれだと酒席と云ふより晩酌で、それ以上が浮ばないのは、わたしの想像力が貧困だからではなく、馴染みがうすいからなのだと居直つておかう。