閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

361 書き手と書くことと書く道具

 普段使ひの手帖にはシグノの0.28ミリで書き込んでゐる。この太さはもう何年も使つてゐて、馴染んでもゐる。字が小さい(他人さまには呆れられる)ので、これくらゐの細さが丁度よい。

 それで先日、久しぶりにグラフ1000のメカニカル・ペンシルで字を書いたら、ひどく書きにくくて驚いた。馴れた指の動かし方で、出てくる字が丸でちがふ。何故だらうと暫く考へて、もしや0.5ミリの芯だからかと思つた。0.28ミリと0.5ミリなら0.22ミも差がある上、先つぽの硬さもちがふ。字にちがひが出たところで不思議ではない。

 一体わたしは筆記具の銘柄や姿には無頓着なのだが、細く硬い筆記具で小さく書くのが、染み込んでゐる。要するに穢い字を誤魔化す為で、どうも褒められたものではない。反省してゐます。

 谷崎潤一郎は筆だつた。横光利一徳川夢声も(どちらかがインタヴューイーだつた)同じく筆。内田百閒はどうだつたらう。安部公房はワード・プロセッサ。新井素子はメカニカル・ペンシル。自身と覚しき主人公の『…絶句』で、“いつでも消して書き直しが出來る”と登場人物を脅す場面があつた。丸谷才一は何を書くかでボールペンと萬年筆(下書きは鉛筆)を使ひ分けてゐた。

 漠然と思ふのは、ある文章と、その文章がどんな筆記具…道具で書かれたかには、何かしら関連があるのではないか。たとへばこの手帖は大半がスマートフォンのメモ帳機能で書いてゐるのだが、これがタブレット端末やパーソナル・コンピュータだつたら、(微妙か露骨かは兎も角)言葉遣ひだけでなく、改行の入れ方や記号の用ゐ方といつた点も異なるだらうし、帖面に手書きで記してからだと、更にちがつてくるだらう。その手書きがシグノとグラフ1000で、また相違が出るのは、想像の範囲に入る。

 不思議でも何でもない。筆記具は頭の中にある事どもを文字で固定さす道具なのだから、変らない方が寧ろ奇異である。わたし程度でさうなのだから、書き手が文章をものにする時に何を撰ぶかは大切な筈で、或は書き手が撰んだ筆記具が、その文章の性格を決めるのではないかとも思へてくる。さういふ研究があつたら面白いが、筆墨硯紙と文學の双方に通じ、文章が巧いひと(そのひとは何を使つて書くのか知ら)がゐるものかどうか。