閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

362 お殿さまにはばれない様に

 内田百閒の『御馳走帖』に[お祭鮨 魚島鮨]といふ一篇が収められてゐる。お祭乃至魚島鮨とあるのは、我われが思ふ散らし寿司だと思へばいい。尤も丸で同じと考へたらえらい目にあふのは間違ひない。上の一篇には宮木檢校に届けた時の寿司種が列挙してある。その数實に二十二種、数へ方によつては二十四種もあるから、まことに贅沢なと感心する前に呆れて仕舞ふ。勿論その贅沢には理由があつて、ここは引用すると

 

 昔町人が余り食べ物に贅沢をするので殿様が而今町人の食膳は一汁一菜たる可し。犯す者は罰せられると云ふ御布令が出たのが所謂岡山鮨の濫觴ださうである(中略)もともと質素の御布令に反抗して出來た鮨であるから豪奢を以て自慢にする(中略)余り色々な物が這入つてゐない方がうまいかも知れないけれど、その分別を犠牲にしても珍らしい物や高価な物を入れなければ納まらない。

 

お寿司なのだといふ。なので届けてもらつたら驚き呆れ、且つ歓ぶのが正しいのだと解る。かういふ贅沢が成り立つのは、瀬戸内の町といふ要素が大きいにちがひない。檀一雄が『美味放浪記』の中で羨望と呆然を半々に

 

 鯛やエビなどと、贅沢なことを云わなくたって、獲れたばかりの穴子を煮付け、オコゼをカラ揚げにし、サワラを刺身にし、塩焼にし、シャコを煮付けて並べれば

 

ラーメンやギョウザやチキンライスより“うまいのだから、どうしようもないのである”と書くくらゐで、散らし寿司を豪奢にするなんて、六づかしい課題ではなかつたのだらう。今の瀬戸内も檀の頬を綻ばせるのか知ら。

 一体にわたしは散らし寿司が好物である。宮木檢校を歓ばせただらう豪華には手が届かないが、海老だの鮪の赤いところの漬けだの烏賊だのに、錦糸玉子や蓮根や筍や椎茸に生姜の甘酢漬けがあれば上等で、岡山人からはきつと、貧相ぢやのウと呆れられるか。併し豪奢も過ぎると眺めてうつとりして終りさうな気もしなくはない。

 それで思つたのは、散らし寿司…お祭寿司乃至魚島鮨が食卓に出て、何を呑めばいいだらう。お酒と云へば収まるかと思つたが、何だか落ち着かない。寧ろお吸物で平らげるのが似合ひで、その後おもむろに、檀を歓ばせ、また呆れさせもしたママカリやらベラタ、穴子で二合の徳利をやつつけるのが、礼儀かと思はれる。お殿様にばれたら、たいへんな目にあはされさうだけれど。