叉焼もなるとも要らない。
代りに葱と大蒜は山盛り。
それで熱くてうまいやつ。
さういふラーメンを今すぐひとりで(爺ちやんや婆ちやんは次の機会に連れてくるから)、一心不乱に食べたい。
さういふ願望が浮んだとして、それを唄に仕立てる積りになるものだらうか。いやその積りになつたとして、歌詞を思ひつけるか知ら。
出來るとしたらきつと矢野顕子以外にゐないし、實際、かうしてやつてのけたから、彼女は一種の天才なのだと思ふ。
ラーメンだからいい。
仮にもり蕎麦を相手に、海苔も山葵も要らない。葱は大盛りで、きゆつと〆たうまいやつ、と唄つても、何がなんだかわからない。大体一心不乱に啜るのは、もり蕎麦ではなくかけ蕎麦だし、かけ蕎麦で何かしらを削るのは無理でもある。
饂飩やスパゲッティの事情は蕎麦と似てゐて、ラーメンに辛うじて近いのはソース焼そばくらゐだらうか。尤もソース焼そばから何を抜けばいいのか、矢張り疑問は残るし、そもそもソース焼そばを、この唄のやうに發作的に食べたくなるとは思ひにくい。
根拠があつて云ふのではないけれど、彼女は意図してこの唄を作つたのではない気がする。
スタヂオに篭つた夜中、ラーメンが食べたくなつたのに、併し近所には開いてゐる店がなく、即席麺も見当らず、がつかりした経験があつて、何日か何ヵ月か、或は何年も過ぎてから思ひ出した時、麺がうであがつたやうに、目の前に浮んできたにちがひない。
「ラーメン一丁、お待ち遠さま」
それで一心不乱に啜り込まなければ、寧ろ嘘と云ふもので、さういふ感動…この云ひ方、をかしいかな…が、面妖と云へば面妖な歌詞の裏側に潜んでゐさうな気がしてならない。
"男も辛いけど、女も辛いのよ"と矢野が唄ふのを、ラーメンを作る男と、空腹で待つ女と解釈すれば、續く"友達になれたらいいのに(ね)"といふフレイズの説得力が増す。だつて旨くて熱いラーメンを一心不乱に啜る女性が、魅力的でない筈がないもの。