閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

596 謎めく蒟蒻

 嫌ひではないのだが、旨いのかどうか、判りかねる食べものといへば、わたしにとつては蒟蒻である。もつ煮や筑前煮きに入つてゐないと、何となく寂しいのは事實だが、無くて困るかと訊かれたら、さうでもない。我ながらいい加減と思ふが、ここでは我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも、さういふ食べものがあるに決つてゐるよと居直つておく。

 おでんの蒟蒻を忘れちやあゐませんかと、もの柔らかく指摘する聲が聞こえた気がする。ふむ。さうですな。とは思ふのだが、おでんなら厚揚げと大根と玉子があれば満足、牛すぢがあれば贅沢だとわたしは満足する。糸蒟蒻を結んだやつなら、あつてもいい。分厚い板みたいなのは遠慮したい。あれはどうも、歯触りがなあ。

 かう書いて、もつ煮や筑前煮きの蒟蒻は、小さく千切つてあつたり、薄く切つてあつたりだと(今さらながら)気が附いた。これなら、あの歯触りが寧ろ好もしく感じられ、我儘勝手な態度である。ではあるが、蒟蒻にも責任の一端はある筈で、小さく薄くでなければ、糸蒟蒻のやうに細くないと、おつゆなり他の具とあはないではないか。

 どうやら蒟蒻それ自体は、旨いものではないらしい。

 熱心な蒟蒻愛好者から、抗議されるだらうか。

 併し旨くないのとまづいのは全然別の話で、千切りや薄切りや結んだ蒟蒻は、味噌や醤油を味はふのに具合がいい。さう考へれば、蛸に似てゐると云へなくもない。蛸料理を扱ふお店はあつても、蒟蒻料理専門店は見当らない(また蒟蒻派から咜られさうだ)はあるけれども、眉をひそめ、逆立てることはあるまい。穏やかにいきませうよ、ね。

 ところで蒟蒻は、その辺のマーケットでもありふれた加工食品である。大抵の…殆どの加工食品はどこかの工場で、清潔且つ機能的に製造され(その筈である)、蒟蒻も例外ではあるまい。ただ大抵の…殆どの製造された食品より、手造りが評価される傾向があるのに、蒟蒻ではさういふ話を聞いたことがない。矢張り蒟蒻は、どこそこの作りたてに限る、なんて云へるのは余程のマニヤでも無理ではないか。

 そこで令和二年六月に發表された農林水産省の資料を見ると、蒟蒻の生産は、群馬県が他の都道府県の追随を許してゐない。資料にある令和元年度の数字で、栽培面積は全國で三千七百ヘクタール中、三千二百八十ヘクタールを占め、全國の収穫五万五千九百トン中の五万二千百トンが群馬産であつて、圧倒的だとかそんな話も莫迦ばかしくなつてくる。

 五万二千百トンを小錦の全盛期(二百八十キログラム余)に換算すると、一万八千人分余り。参考までに。

 大関の体重はさて措き。群馬と云へば豚肉に葱だと思つてゐたから、上に挙げた数字を知つた時は少々驚いた。これも参考の為に云ふと、豚肉を挙げたのは、丸谷才一吉田健一の『私の食物誌』を評した時、[群馬県の豚]を引いて、"桃源郷のトンカツ"と題を附けたからで、實際に群馬の豚が旨いのかどうかは知らない。併し豚肉と葱は出会ひものだから、双方とも旨いものであつてもらひたいとは思ふ。

 そこに何故、蒟蒻が入り込むのだらう。下仁田の町が云ふところだと、蒟蒻芋は日当りや気温や水捌けなど、中々に神経質な植物なので、栽培向けの土地柄は(ある程度にしても)限られるさうだ。成る程、甲州の気候や土地柄が、葡萄向けなのが聯想されるねえ。と感心してから、甲州葡萄は葡萄酒に変じて我われを歓ばせるけれど、上州蒟蒻芋は果してどんなものか知ら。

 ざつと調べた程度だから、信憑性は極めて低いと思つてもらひたいが、下仁田…群馬で、うまい蒟蒻を押し出てゐる気配は感じなかつた。全國に出荷するのが主になつて、県内では食べないのか知ら。令和元年時点で群馬の人口は約百九十三万人。五万二千百トンを食べ尽すには少々、無理がある。

 ゼリー風のお菓子はあるし、自動販賣機のラーメンでは細長く切つて使はれてゐるし、同じく細長切りがスパゲッティの代りに採用された例もあるから、応用は利きさうなのだがなあ。とは云へそれは代用品の扱ひで、本來の食べ方とは呼びにくい。尤も蒟蒻本來の食べ方はどうするのですと思ふ。甘辛煮とかぴり辛炒めとか、その程度しか浮ばないのは、わたしの無知ゆゑなのは認めるとしても、こんな風に食べればいけるのですよ、と云はない蒟蒻にも理由はあるでせう。とここまで考へて、待てよと思つた。蒟蒻が主役に近い役目を果す食べもの…さうだ田樂があつたぢやあないか。

 別に六づかしくも何ともない。

 好みの大きさに切つた蒟蒻を串に刺して温める。

 そこに味醂なんぞで甘く仕立てた味噌を乗せる。

 嘘ではない。それだけで出來て、そのそれだけが實にうまい。と云つたら、それは味噌が旨いんですよと笑はれるかも知れず、確かに間違ひと反論はしにくい。その点は認めつつも、その味噌は豆腐や大根に乗せることも出來て、ぢやあ蒟蒻と豆腐と大根のどれに乗せたいか考へるに、どうやら蒟蒻が最良の撰択ではなからうか。群馬の地形は詳しくないが、からつ風が吹くくらゐだから、山々…詰り水に恵まれ、味噌も旨いにちがひない。飾り切つた蒟蒻を様々の味噌で食べればきつと愉快だし、序でに豆腐や大根(それから味噌に適ふ野菜)も用意すれば、一種のフォンデュになると思ふ。併し似合ふかと云ふと、些か微妙な感じもされ、他の具を用意すれば蒟蒻の扱ひはまたしても地味になりさうで、この謎めく感じは、湯がいてもほぐれさうにない。