閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

603 文庫に就て

 和語の"フミ ノ クラ"に漢字を宛てたのが"文庫"だから、本來の意味は書庫とか本棚、規模の大きさで云へば図書館に近い。この場合の"フミ"は分野に関らず、文書全般を指すと見ていい。さう考へると、"文庫本"といふ呼び方は、何かをかしい。"フミ ノ クラ"に収められてゐるのは、広義の"本"なのだもの。鯛のちり鍋ぢやああるまいし。

 

 現代的な"文庫本"は書籍の一形態と云へる。この意味での原型は、ドイツのレクラム出版社のウニヴェルザル・ビブリオテク…我が國ではレクラム文庫と呼ばれる…まで遡れる。發刊の目的は古典や科學哲學の名著の廉価な提供だつたといふ。最初の刊行は千八百六十七年…明治元年だから、一世紀半の歴史がある。

 

 レクラム文庫が出來て十五年後の明治十四年、信州諏訪に岩波茂雄が生れた。かれが四十七歳の時…昭和二年に發刊したのが岩波文庫である。その刊行に際して

 

 吾人は範をかのレクラム文庫にとり(中略)、簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲す。

 

と自ら記した通り(手近にあつた『日本の酒』坂口謹一郎/平成十九年第一刷の"読書子に寄す"を参照した)だから、ドイツの出版人を眞似…訂正、参考にしたのは間違ひない。肩の力のいからせ具合が凄いね。奥歯にも力がこもつてゐる。令和の今、微笑を浮べたくなる生眞面目さにも思へるが、大正から昭和に掛けての人口が六千万人くらゐ。その中の讀書人口となると、こちらの想像の及ばない少さだつた筈で、出版を仕事にするぞと決めた岩波の気合ひも想像出來る。"あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せん"と望んだのは、文學的な誇張も含まれてゐたにせよ、それは明治人の気負ひが云はせた誇張だつたと思へる。

 

 最初に買つた岩波文庫は『歌よみに与ふる書』だつた。正岡子規が歌壇俳壇に喧嘩を賣つた本ですな。当時の岩波文庫はハトロン紙といふのか、曇り硝子のやうな薄紙でくるまれてあつて、古風に感じた記憶がある。それから松平千秋の翻訳が光る『イリアス』にサヴァラン教授の『美味礼讚』、ソクラテスプラトンも何冊か。『ガリア戰記』は講談社の学術文庫だつたかも知れない。『南方録』に『柳多留』に永井荷風は間違ひなく岩波文庫で、子規以外の装幀は他社の文庫本と同じになつた。こんな風に記すと何となく、自分が古株の賢いひとになつた気がする。ブランドを侮つてはならんのだなあ。

 

 尤も最初に手に入れた…詰り買つてもらつた文庫本は、ハヤカワだつた。『太陽系七つの秘宝』といふSF…いやスペース・オペラと呼ぶ方がこの際、正しからう。更に遡ると、母親の本棚に並んであつた文春文庫("鬼の平藏"や田辺聖子、それから『竜馬がゆく』)や創元推理文庫(クリスティとクイーン)に馴染んでゐた。新潮文庫と中公文庫と講談社文庫はどうだつたか。"コルプス先生"がどれかに収められてゐたと思ふ。前言を翻へせば、文學的ではない。少くとも文學的にオーソドックスとは呼べない。レクラム岩波両氏ならきつと、それは"文庫本"本來の姿ではないよ、と嘆くだらう。申し訳ないとは思ふが、今さらやり直しがきくわけでもないから、先達には諦めてもらひませう。

 

 まあ併し。"須要なる生活向上の資料、生活批判の原理"は兎も角、"簡易なる形式において逐次刊行"される文庫本は、娯樂の恰好の友であつたし、恰好の友であり續けてゐる。何しろ廉価だものと云ふと、さうかなあと疑念が呈せられるとは思ふ。そこで手近にあつた『金沢』(吉田健一/講談社文芸文庫)の値段を見ると、消費税別九百四十円とある。ちよつとした定食並みか、いいお酒なら正一合でもつと高いこともある。さう考へると、『金沢』は同じ値段で何べんも繰返し樂める。おまけに定食や正一合を味はふタイミングは、ある程度にしても限られるのに、文庫本なら家でも電車の中でも呑み屋の卓子でも、好きに味はへる。さう考へれば(厭な言葉なんだけれど)、どちらのコスト・パフォーマンスが、などと議論する余地も無いのは直ぐに解る。

 

 九百四十円が九十四円でも高い文庫本だつて、ある。

 わたしは公正な男だから、そこは認めませう。

 實際、文庫本の大半(殆どと云はないのは、良心の發露と思つてくださいよ)は指摘の通りなのだが、それは"簡易なる形式"の側面なのだから仕方がない。その意味でウェブログだの何だのの"簡易なる形式"で惡文を垂れ流せる現代は、偉大な出版人の不肖の子孫と時代と呼んでもいい…仕舞つた、

云ふんぢやあ、なかつた。

 それはさて措き。改めて考へれば、文學でも歴史でも思想や哲學、或は學術でも、ポケットや鞄の隅に入れ、持ち運べる"文庫本といふ形態"が、出版史の中でも矢張り大發明だつたとは断定していいと思ふ。わたしの讀書体験なんて、別にどうといふほどでもないが、その多くは文庫本(と新書)で成り立つてゐる。その分、無碍に出來かねる事情は察して頂きたいのだけれど。

 

 理想を云へば、本棚…フミノクラに並べる文庫本は、揃つてゐて慾しい。大きな本屋で目にする、背表紙が整つた書架は、まつたくいいものである。たださういふ目で見ると、この文庫本で揃へてもいいと感じる書架と、さうではない書架がはつきり分かれる。先に後者を挙げれば角川集英社講談社(但し学術と文芸文庫は除く)文庫。ハヤカワ文庫は惡くないのだが、何故だか背の高さのちがひが大きくて、早川書房のひとは何を考へてゐるのか、不思議でならない。もちつと前者に近寄れば、創元河出ちくま文庫、それから旺文社と福武文庫も挙げたい。尤も後の二社が、今も文庫本を發刊してゐるのかどうかは知らない。と考へを進めれば前者に含めていいのは、岩波新潮中公と文春文庫辺りで、我ながらまあまあ妥当な(要は詰らない)結果と云つていい。それにどれも、旧式(の背表紙)に較べ、改惡されてゐるのは気に喰はない。何がどう改惡かと訊かれれば、工場から出てきた製品の管理シールのやうな感じ厭だと応じたい。ただこれはまつたく好みの話だから、反論されても仕方がなからう。

 

 では妥協的ではない文庫は無いのかと云ふと、白水社文庫クセジュと、冨山房の百科文庫がある。どちらも文庫と銘打つた叢書でありつつ、文庫本の形態でないのが面白い。平均的な価格は、文庫本を上回るけれど、薄田泣菫や夷齊石川淳が讀めると思へば、大したことではない。それに"簡易なる形式において逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供"するのが文庫(本)の役目とすれば、判型やら刊行点数を誇る九十四円相当の文庫本よりこちらの方が本筋と思はれる。かう云ふと、レクラム岩波両氏は頷いて呉れるだらうか。それとも、おれの出版社ぢやあないと項垂れるだらうか。