閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

684 スパゲッティ・アル・パロディ

 伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』に[スパゲッティの正しい調理法]といふ一文がある。"正しい"が實に力強いね。伊丹が云ふには、イタリーのスパゲッティを手に買ひ、大きな鍋で沸かした湯(沸騰する寸前に塩をひとつかみ。伊丹の代りに云へば、ひとつまみではない)に、長いまま入れる。その茹で加減は

 

 前歯で噛んで、スカッと歯ざわりのある感じ。これをイタリー人はアル・デンテと呼ぶ。

 

これくらゐ。うであがつたスパゲッティは笊にあけ、手早く水を切り、空になつた鍋にはバタをひと塊。溶け出したバタに水を切つたスパゲッティを入れて掻き回す。バタが満遍なくゆきわたつたのが

 

 蕎麦でいえば「もり」。スパゲッティ・アル・ブーロと呼ばれるものです。

 つまり、スパゲッティというのは、白くて、熱くて、つるつるして、歯ごたえがあって、ピカピカしたものなのです。

 

伊丹いはく、この"白くて、熱くて、つるつるして、歯ごたえがあって、ピカピカした"もり…ではなかつた、アル・ブーロにパルミジャーノを削り、ひとり頭、大匙三杯分くらゐの気持ちで振りかけて食べるのが一ばんおいしいのだといふ。同じ本には[スパゲッティの正しい食べ方]と題された一文も収められてゐるから、正しく茹でたスパゲッティを、正しく食べる技術まで得られる。まことに實用的で解り易い。叉旨さうでもあるから、何とも迷惑な話である。ここで云ふ迷惑は寧ろ褒め言葉だから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、その辺りの忖度をひとつ、お願ひしますよ。

 併し別にスパゲッティの調理…茹で方は、六づかしくも何ともない。大量の水と塩。バタとチーズ。要はこれだけだもの、蕎麦を用意するより余つ程、単純と云つてもいい。尤も単純だから惡いわけではなく、それで美味しければ文句は無い。伊丹は親切にも、トマト・ソースの作り方も紹介してゐるから、長くなるけれど引用しますよ。

 

 同量のバターとオリーヴ油を小鍋にいれて火にかける。にんにくのミジン切り少々、葱のミジン切り適量を加え、焦げ始める頃、トマトを、これは好みだけど皮ごと、千切っていれる(中略)あと、どろどろになるまでトロ火で煮れば出来上りです。トマト・ピュレ、トマト・ケチャップなんて死んでも使う気がしなくなるのでした。

 

このトマト・ソースをアル・ブーロにかけたのが、"スパゲッティ・ポミドーリ、一名スパゲッティ・ナポレターノという、あれ"ださうで、不思議に思つてはならない。我われがスパゲッティ・ナポリタンと呼んでゐるのは、トマト・ケチャップで炒めるメリケン式を日本で改造した調理法だから、伊丹から炒め饂飩の親戚程度に扱はれるのは間違ひない。

 併し茹で過ぎてふはふはになつても、トマト・ケチャップで炒めても…詰り正しくないスパゲッティだつて、まづいかと云へば、さうだと断定するのは躊躇はれる。トラディショナルへの厳密を控へたら、炒め饂飩仕上げの一皿だつて、決して惡くない。ミート・ソースのスパゲッティ…ボローニャ風の意でボロニェーゼと云ふさうだが、實際ボローニャ人が食べてゐるのだらうか…をお行儀にかまはず、ずるずると啜り込んで、口のまはりをソースだらけにするのは、イタリー人の想像から外れた樂みと思はれる。

 さて伝統的なスパゲッティ観から距離を置くと、あの麺は驚くほど様々な具や調味料と相性がよい。大葉や紫蘇、大根おろし、種々の山菜。ソップに入れ、マヨネィーズで和へ、カレー・ソースやあんを掛けるに到つては、最早アレンジメントの範疇からも逸脱してゐる。海苔を内側に、表側に鮮やかな赤や青を散らしたメリケン・スシのやうでもあつて、さういふ調理法が成り立つくらゐ、スパゲッティの懐は深い。古風なイタリー人ならきつと、頭を抱へるだらうが、訳知り顔で、それだけ各國で受け容れられてゐるんだから、胸を張り玉へと云つておかう。

 ここでひとつ、大急ぎで念を押さねばならない。伊丹の眉間の眉が深くなると思ひながら云ふと、変格のスパゲッティの中にも旨いのはある。但しそれで、本格のスパゲッティを蔑ろにしていいとはならず、話は寧ろ逆になる。変格が成り立つのは本格の根太が頑丈だからで、妙な云ひ方をするとパロディと同じである。筒井康隆の『わたしのグランパ』について丸谷才一は大意、最後の葬儀の場面で長々と續く弔問客の描冩を、ホメロスのパロディと評してゐた。讀み巧者の美事な批評と云ひたくなるけれど、文藝の話ではなかつた。

 ええと、ホメロスといふ偉大な古典があつたからグランパの葬儀でパロディが成り立つた。変格スパゲッティのパロディも、イタリー人の偉大で本格のスパゲッティがあつて成り立つと見て(文藝のパロディの構造のパロディでもある)、間違ひにはなるまい。間違ひでない以上、我われは先づ、"白くて、熱くて、つるつるして、歯ごたえがあって、ピカピカした"スパゲッティを、ホークで紡錘形に巻き取ることから覚えるのが望ましい。炒め饂飩式のトマト・ケチャップ和へ(ウインナとピーマンと玉葱が入つてゐる)をお箸で賑やかに啜り込むのは、後廻しにしてもかまふまい。先に本格を知つておけば、イタリー人に厭な顔をされることも、伊丹に咜られる心配もせずに済む。