閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

428 ジェンキンス・エグス

 煎り卵とスクランブルド・エグスでは、頭に浮ぶ姿が随分と異なる。前者は塩胡椒で堅めに炒めた感じで、後者だとバタやクリームでふはりと仕立てた感じ。それぞれは定義といふか、作り方で呼び名もちがつてくるのだらうと思ふ。『宇宙の戦士』(ロバート・A・ハインライン/矢野徹訳/ハヤカワ文庫)の序盤に

 おれが二杯目のコーヒーにかかっていると、ブロンスキー伍長がジェンキンスをつれて入ってきた(中略)おれは声をかけてやった。

「ほら、コーヒーをついでやったぜ、飲めよ」

 ジェンキンスは首をふった。

 おれは言いはった。

「食べたほうがいいぜ…さあ、いり卵でも食べろよ…こいつなら流しこんででも入ってゆくよ」

新兵としての訓練初日、早朝からとんでもない長距離を走らされたジェンキンスを、主人公である"おれ"が手助けする場面である。軍隊の朝食だもの、新鮮で上等の卵とバタで作つたとは思へないが、珈琲で流しこめるくらゐには軟らからしいと想像はつく。わたしの語感で云へば、スクランブルド・エグス。そこをすらつと、いり卵にしたのは、軍隊の殺伐を暗喩するのに適切だと判断したからだらう。栄養は考慮されてゐさうでも、旨さうには感じない。前段で"おれ"はうまかつたと云つてゐるが、更にその前には夜明けからの訓練があつた。並みの朝めしを上等に感じても不思議には当るまい。

 軍隊めしの話ではなかつた。わたしには兵役の経験は無いし、今後も経験したいと思はない。平和的に進めませう。

 卵を用ゐる料理で、手間の少いものを挙げれば、うで卵に目玉焼き、それから煎り卵乃至スクランブルド・エグスであらう。念の為に云へば単純な料理といふのではない。うで卵なんかお湯に浸ければいいぢやあないかと思はれるかも知れないが、茹でる時間ひとつ取つても、そのままで食べるか、何か(たとへばハンバーグや丼もの)に添へるか、外に転用するか(たとへばタルタル・ソース)でちがふ。

 また話が逸れさうになつてきた。生卵を念入りに溶き、油を敷いたフライパンで適宜火を通す調理法だつて、それ自体は六づかしくも何ともないが

 空腹の具合。

 朝晝晩のいつ食べるか。

 ベーコンやソーセイジやハムはあるか。

 ごはんがあるのか麺麭(食麺麭かバゲットかクロワッサンか)なのか。

 さういふ條件を鑑みつつ料るとなると、堅くすればいいのか、ふはりと軟らかにするのか、塩胡椒を使ふだけでいいのか、サラダ油かバタか、クリームや牛乳は必要なのか、仕上げた後に醤油を用ゐるか、ケチャップかマヨネィーズかウスター・ソースか…思ひつくままに挙げるだけでも、撰択肢は幾らでもあつて、煎り卵とスクランブルド・エグスの分岐点はその撰択にありさうである。どちらが正しいかといふ話でないのは勿論で、ケース・バイ・ケースとはこんな時に使ふ言葉ではなからうか。

 尤も好みに適ふかどうかは更に別の話であつて、わたしはどちらかと云ふと、軟らかな仕立て…スクランブルド・エグス寄りを歓ぶ。ケチャップで。混ぜ(すぎ)てはいけない。カレー・ライスを混ぜて食べないのが基本なのと同じで、何が同じかと云へば、その方が旨くて、味の変化も樂めるところだと応じたい。食麺麭でもバゲットでも焼き、薄く切つたハムとトマトと珈琲を用意すれば、朝のご馳走が完成する。スクランブルド・エグスは麺麭に乗せていいのは勿論、木の匙で掬ふのもいい。

 そのスクランブルド・エグスは簡素なのがいい。微塵にした(少量の)玉葱やらベーコンを入れてもらひたくなる気持ちも、時に無くはないけれども、それだと失敗したオムレツになりかねない。粉チーズとパセリを振るくらゐが精々だと思ふ。ただこれだと朝めしにしか似合はない。黑胡椒を削る贅沢が出來れば、葡萄酒にあはせてもうまからう。煎り卵なら刻んだ青葱を散らせばお燗酒のお供になる。ジェンキンスが流しこんだ"いり卵"はきつと簡素でなく無愛想な代物だつたにちがひないと想像すると、哀れな新兵に同情したくなつてくるし、矢張り軍隊めしとは無縁のままでゐたいものだと思はれてくる。