閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

686 好きな唄の話~愛の才能

 天才であることは単に六づかしい。

 さうあり續けるは更に困難である。

 

 川本真琴のデヴューは本当に驚いた。性をあつけらかんと肯定し…いや正確には、性愛への興味を隠さうとせず、少女と呼ばれる年代から聯想される"無垢"を蹴散らしてもゐた。彼女のデヴューを手掛けたのは岡村靖幸なのだから、当然と云へばその通りかも知れないけれど。

 

 併しそれを"不純"ととらへるより、ある年齢に達した時、必ず訪れる言葉にし難しい感情、情動を、稚拙な手つきで探つた結果なのだと考へたい。だとすればこの唄に、胸の奥底に澱む苛立ち…十台の特権でもあるのだが…を、貧弱な語彙で引き摺りださうとした"純粋"さを感じてもいい。

 

 川本の不幸は、"十台の特権である(乱暴で無邪気な)純粋と苛立ち"を、いつまでも求められたことではなからうか。女の子が女性になり、"無垢"ではゐられなくなつても、さうあり續けてほしい(或はさうあり續たい)と願へば、天才の破綻は早晩にやつてくる。岡村がさうだつたやうに。

 

 とはいへそれは後の話だし、仮にそれを含めても、デヴューの驚きに傷がつくこともない。彼女は"無垢"を纏つて、どこまでも疾走を續ける、さう感じさせるのに余りある"愛の才能"がそこにはあつた。尤もわたしの云ふ"無垢"は無論、男の勝手な思ひこみである。だから驚きも嘆きも勝手な思ひこみと云へなくはない。