閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

737 正しい口の使ひ方

 最初に念を押すと、中心になるのはごはんである。

 白ごはん。

 その白ごはんにあはせて嬉しく旨い中華料理(中國料理でなく、日本式に変更されたのも含めて)は何だらうといふ、今回はそんな話。

 

 思ひ浮んだのを順不同で挙げませう。

 回鍋肉

 青椒肉絲

 麻婆豆腐

 以上が三大菜譚として、次点には酢豚と油淋鶏、それからトマトと玉子の炒めものを推奨したい。焼き餃子や焼賣はどうしたと云はれさうだが、それらは点心…即ち麦酒のお供だから、青島乃至臺灣麦酒でやつつけるのが正しい。

 

 いきなり余談になるが、数年前、不意に思ひ立つて、宇都宮に行つたことがある。何とか通りの近くにある屋臺村の一角に臺灣風の呑み屋があつて、そこの百合根のカレー粉炒めがえらく旨かつた。また行かねばならぬ。余談はさて措き。

 

 白ごはんは、大体の食べものを"おかずに変換出來"るのが強みであらう。おでんもクリーム・シチューも、粕汁馬鈴薯のバタ炒めも、適はないとは云へない。吉田健一は、麺麭と熱いごはんに適ふ食べものには共通項があると教へてくれた。確かに卓見ではあるが、幅の広さといふか、器の深さといふかは、白ごはんに一日の長がありさうに思ふ。

 

 さう考へると、白ごはんに似合ひの中華料理は何か知らと云ふ疑問自体が成り立たなくなる。そこで定食にするならどうだらう…と、方向を附けてみたい。

 

 では定食とは何ぞやといふ話になつて、この稿では大雑把に、白ごはんにおかずと小鉢と汁ものが纏つて、お盆に乗せられたのを定食と呼ぶ。なので炊き込みごはんやばら寿司、カレー・ライスや炒飯、丼ものとの組合せは省く。異論が出るのは当然と思ふが、炊き込みごはんその他を含め、中華料理との相性を考へるのは六づかしい。

 

 では。先づ中華料理に限らず、白ごはんに適ふ定食的な食べものを考へると、塩鮭や鯖の味噌煮、ハンバーグ、鯵フライ、とんかつの卵とぢ辺りが浮ぶ。

 ばらばらだなあ。

 と思へるが、甘塩つぱさ、もしくは甘辛さが似通つてゐると云へなくもない。また甘さ塩つぱさ辛さのいづれにも、極端には振れてゐない気がする。…おづおづした態度になるのは、かういふことを考へた経験が無いからで、想像力が足りないねえと、呆れられるだらうか。

 

 そこで思ひ出すのは、たれだつたか、日本の料理…味附けや材料の撰び方…は、広東福建の料理に色濃く影響されたのではないかといふ説。随筆で一讀した筈だから、七割方は冗談だけれど、そこには特色として、お米を主に食べ、極端な加工に重きを置かず、穏やかな味を好むともあるから、ひよつとしてと感じられはする。

 広東人や福建人が中庸な甘辛い料理を好んだか、好んでゐるかは知らない。併しあの辺からの流れは臺灣料理にも汲まれてゐるし、原日本人南方起源を論じるには具合がいい。原日本人論の實際が随分とややこしいのは知つてゐるから、踏み込むのは避けるけれども。

 

 さうなると広東や福建の料理に、定食向けの一品があるのかどうか、気になるのは、理からも人情からも当然の筈で、雜に確めると、冒頭に挙げた回鍋肉と麻婆豆腐は四川、青椒肉絲は福建らしい。随筆家の推測は些か怪しいね。

 尤も我われ日本人は、外ツ國の料理を白ごはん向けに改造する癖を濃厚に持つてゐる。出身が福建でも広東でも四川でも、そのままでは白ごはんに適はないと思へば平然と、醤油で調へ、味噌を加へ、異なる出汁を取りもする。倭人の猿眞似と嘆く勿れ。我われの食卓が豊かになつた背景に、さういふ一面は確かにある。

 

 今一度振り返れば、白ごはんは大体の食べものをおかずにする力があり、その中では特に、醤油や味噌や塩、甘辛、甘塩つぱ、甘酢との相性がいい。

 と考へるに、冒頭の三菜譚から青椒肉絲と麻婆豆腐を抜いて、揚げた白身魚(または鶏肉)の甘酢あんと、豚肉と茄子を豆板醤で炒めたのを入れるのが適切かとも思へる。後者は中華料理の範疇かと疑義が呈せられるかも知れないが、なーに、白ごはんに似合つて旨いのだから、日式だからと気にすることはあるまい。

 

 詰るところ、白ごはんに適ふ中華料理の決定版は決めかねる。上には挙げなかつた、家常豆腐(酢豚の肉の代りに厚揚げを使つた臺灣の家庭料理)なんてまつたく素敵だし、鶏肉とカシュー・ナッツの炒めものだつて、實に喜ばしい。搾菜に掻き玉子のお吸ひものを添へたのが目の前に登場して、幸福感を覚えないひとがゐるだらうか。とは作文術で云ふ反語なので、さうでないひとがゐるとしたら(まさかね)、とても食卓を共に出來るとは思へないのだが…まあ、八釜しいことを口にするのは止める。腹も減つてきたことだし、壜麦酒で餃子を平らげて、おもむろに中華料理と白ごはんに取り掛かると致しませう。これこそ、正しい口の使ひ方である。