閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

748 ニラレバ炒め定食を食べるなら

 漢字で書くと韮菜炒牛肝または韮菜炒猪肝。牛か豚の肝と韮の炒めもの…韮レバ乃至レバ韮炒めで、どちらが古い呼び方かと云ふと、前者であるらしい。この稿では以降、ニラレバ炒めと書きますよ。

 血抜きした肝…レバに大蒜と生姜で下味をつけ、韮とあはせて、塩胡椒と酒と醤油で炒めあげる。まつたく簡潔な調理であつて、強火で一ぺんに火を通すのがこつだといふ。併し簡潔な調理だからいけない理由はなく、簡潔で旨ければ文句は無い。それでニラレバ炒めが簡潔で旨い食べものなのに、疑念の余地は見当らないといふものだ。

 韮菜炒牛(猪)肝と書くとほり、中國料理の一種なのは間違ひないとして、出身が広東なのか福建なのか福建なのか四川なのか、今ひとつ判然としない。何とか飯店や何々樓の卓より、町中の中華料理屋のテイブルで食べる、ニラレバ炒め定食(六百五十円/搾菜とソップ附き)が似合ふからだらうか。

 しつこく云ふと、六百五十円のニラレバ炒め定食が、いかんのではありません。ああいふお店のニラレバ炒めには、人参ともやしと玉葱が入つてゐて、肉野菜炒めの肉をレバにしたやうな感じがする。味つけは大体ひどく濃い。白ごはんが進むし、麦酒を奢つて摘むのにも具合がいい。要するに廉で簡単でうまい。

 

 なのにどうも、ニラレバ炒めの格は、ひくく扱はれてゐる気がする。

 

 韮は五蘊…匂ひのきつい五種の野菜…に数へられるから、だらうか。併しそれは葷酒を禁じた山門の話で、俗人の我われが忌避する理由にはなるまい。さうなると視線はレバに向けざるを得ず、そちらが實態に近さうでもある。

 云ふまでもなく、我が國では長年、肉食を避ける習慣があつた。その習慣は矢張り云ふまでもなく、多分に形式的でもあつた。詰り我われのご先祖が、大つぴらではなくても、藥喰ひと称して獸肉を食べ、野兎の肉を叩いた団子汁(確かそんな場面が鬼平ものにあつた)で一ぱいやつたり、してゐたのは間違ひない。融通無碍といふべきか。

 尤も禁忌の念が無かつたわけではなく、ここでごく漠然と、神道を思ひ浮べたい。漠然のまま云ふと、神道に色濃い"穢レ"といふ概念は、不浄即ち汚れや血…死に繋りさうなを事どもを忌みきらひ、清浄(手入れの行き届いた神社を思へばいい)を貴ぶ。佛教が説く不殺生が輸入される前からの精神風俗と云つていい。さういふ感覚は、我われの記憶の奥底にも、ゆらりと蠢いて不意に顔を出すのだが…いや、似合はない眞面目気取りは止めませう。

 

 要するに。

 "穢レ"の精神史と佛教の不殺生が重なれば、禽獸の内臓を啖ふ習慣が成り立つ筈はなく、習慣にならないのだから、下拵へにしても味つけにしても、技術は生れず、生れたとしても發展には到らず…その馴染まない馴染めない時間が千年千五百年もあつたんだもの、それで内臓に

 「何だか気味が惡い(下手をすると匂ひが鼻につく)」

さう印象がへばりつかない方が、寧ろ不思議でせう。我がニラレバ炒めの立場がふるはないのには、色々とややこしい背景が潜んでゐる。それは仕方がないとも云へるが、ご先祖は勿体無いことをしたと思ふ。レバ…臓物の類は、下拵へ(血抜きやちよつとした匂ひ消し)の手間を惜しまなければ、たいへん旨いとこれは、檀一雄から教はつた。

 手間とは云つたが、別に複雑面倒ではない。うでこぼしを丁寧にすれば、後は大蒜生姜を出來れば使ひ過ぎなければよく、時間が多少、掛かるくらゐである。罐麦酒でも呑みながらだつたら、何と云ふこともない。匂ひ消しが不安なら大蒜や生姜や葱をたつぷり使へば、素敵にうまいニラレバ炒めが出來るの。それでも矢つ張り、と不精が顔を出すなら、近所の中華料理屋に足を運べばいい。

 

 ニラレバ炒め定食を食べるなら、壜麦酒を一本奢らう。

 おかず…即ちニラレバ炒めは、麦酒の摘みに。

 ごはんは搾菜とソップで食べつつ、ひと口残す。

 お皿に溜つた汁気に残したごはんを入れて平らげる。

 少々品下れるのは認めるが(ことに最後のは、他のお客がゐない時でないと六づかしいかも知れない)、ニラレバ炒め定食を満喫するには最も好ましい…とわたしは信じてゐる。ああ序でに云ふとこの手順は、肉野菜炒め定食にも応用出來るから、記憶の片隅に留めて損にはなりませんよ。