閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

834 たちの惡い記憶

 小さなフォーマットで、レンズ交換の出來るカメラがあつた。ペンタックスの「Q」とニコンの「1」がさうで、どちらも数年で姿を消した。どちらも買はうかどうか迷つてゐる間(おれは優柔不断のベテランなんである)に製造が終つたことを思ふと、不人気…少くとも数寄者が弄ぶ以上の人気を得られなかつたのは間違ひない。

 すりやあ、スマートフォンのカメラ機能があつたら、消し飛ばされたところで、寧ろ当然の結果だよなあ。

 と思ふのは半分、正しい。残りの半分は宣伝が惡かつた。より大きなフォーマットの機種に匹敵する冩眞を撮れますよと云つたつて、スマートフォンのカメラ機能に不満を持たないひとが飛びつくものか。おれならあの大きさでスマートフォンよりちやんと撮れて、色々游べもするんですと云ふ。ニコン「1」は最後まで生眞面目なニコンだつたから、游びの境地まで辿りつけなかつた。

 

 だつたら「Q」はどうだつた、と疑問が浮ぶのは人情の当然で、ペンタックスニコンより、冗談を解つてゐたと思ふ。「Q」は要するに、レンズ交換可能なコンパクト・デジタル・カメラであつて、カメラ…冩眞に興味を持たないひとに、どうです面白さうでせうと云つてゐる感じがした。レンズ銘を単純な番號にしたのも、ややこしさ六づかしさを感じさせにくくする工夫だつたと思ふ。

 初代はそれでも眞面目の成分があり、金属を用ゐたボディだつたが、二代目以降はプラスチックを採用して、カラフルになつたのは一眼レフから転用した發想の筈だが、寧ろ小さなボディに似合ひだつた。

 その一方では、外附けのファインダと、Kバヨネット・レンズ対応のアダプタ(使ふのに相当の無理はあるけれど)を用意して、恰好を附ける余地もあつた。外附けでEVFが使へない設計だつたのは残念だし、LXのやうなグリップや少々凝つたフードやストラップ、ケイスの類があれば

 『その気になつたら、冩眞"も"撮れる玩具』

といふ妙な立ち位置を得てゐたかも知れないと思ふ。いや大眞面目に云ふので、おれの知る限り、さういふ目的のカメラは無かつた。当り前である。カメラは冩眞を撮る為の機械なんだもの。併しペンタックスにはAPSフォーマットの立派な一眼レフがあつた。今もある。冩眞と正面から向ひ合ふのはそつちに任せ、冩眞なんて御大層な藝術ではないし、好きに游んでかまはないんだよと、この「Q」ではつきり示してゐたら、小フォーマットのデジタル・カメラに異なる道が出來た可能性は残つた…と云ふのは根拠の無い妄想である。

 

 ここまで書いたら、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏はきつと、丸太は今さらえらく「Q」にご執心だねえと微苦笑を浮べるにちがひない。確かにそのとほりで、ここ最近、どうもあのカメラが気になつてゐる。ニコンの「1」には申し訳ないが、物慾とは…大きな事情であるスタイリングに踏み込むと、話がどこに行くか判らなくなる…さういふものなんである。

 それでひとつ思ひ出した。二年か三年ほど前、大坂で旧い友人と中古カメラ屋を冷かしてゐた時、棚に「Q」があつた。それを目にした友人に云はせると

 「この手のカメラはお前サンが、眞ツ先に買ふモンやと思てたンやがなあ」

なのださうで、念を押すまでもなく、"お前サン"はおれのことである。こちらの玩具好みを知悉してゐる男だから、何気なく云つたのだらう。かういふのはたちが惡い。どうやらその記憶がひよいと顔を出して、この稿を書かせたのではなからうか。幸ひ未だ「Q」は手元に來てゐないけれど、いつどこで、何かの弾みが起らないとも限らない。