閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

968 稀な愉快

 獨りで呑んでゐると、稀に愉快な出來事に遭遇する。過日がさうだつた。何と云ふこともない、詰り私好みの廉な呑み屋に、ふらつと女性が入つてきた。女性が獨りで呑む姿は昨今、珍しくもないけれど、ブロンド碧眼なら話はちがふ。何を呑むのか知ら。気になつたので眺めると、壜入りで低アルコールのビール風のを註文した。

 (成る程旅行者が、ジャパニーズ・スタイルのパブを、経験したいのだな)

微笑ましい。次にふと目をやると、苦笑ひのやうな表情をした、その女性と視線が合つた。

 (困つてゐるのか)

と思つて近寄つたら、こちらに壜を見せ、アルコール度数の箇所を指差した。普通の壜麦酒の積りだつたのに、当てが外れたらしい。品書きには生麦酒があるから

 「ジャパニーズ・ビアは、こつちですよ」

教へ序でである、註文も代りにした。それで何となく乾盃をして、話が始つた。會話は、英語とスマートフォンの翻訳機能のバイリンガルである。生麦酒を旨さうに呑んだ女性は、英國から來たと云ふ。

 「ブリティッシュ・ビアといへば、ギネスがありますね」

 「それは間違ひです。ギネスは、アイリッシュ

ははあ。英國人は、ブリテンアイルランド、それからスコットランドを、きちんと区別するらしい。聯合王國だなあ。聞くと能登は七尾から東京に來て、大坂にも足を運ぶ予定といふ。経路を決めた理由は判らないが、大坂に行くなら

 「オコノミヤキとビアの組合せは、是非とも忘れずに、試さねばいけません」

つよく薦めると、大きな笑顔を浮べて、さうしませうと頷いた。ところであなたは

 「トルコについて、何か知つてゐますか」

いきなり話が逸れた。私は不勉強だから、知るところが實に少い。咄嗟に浮んだ、アタテュルクの名前を挙げた。さうしたら彼女は、礼儀正しくこまつた顔で

 「かれを私は好みません」

 「何故です」

 「私はクルド人ですから」

仕舞つた。モーツァルトを挙げればよかつたと思つたが、もう遅い。併し日本人…訂正我われ…訂正私の目では、トルコ人クルド人の区別がつかないのも事實だから、さう云つて誤魔化した。話は幸ひポリティカルな方向には進まず、その代りにまた逸れた。即ち

 「日本の若ものは今、中々結婚しないと聞きます。どんな理由があると思ひますか」

また六つかしいことを訊く。よりにもよつて、離婚経験者に訊くことだらうかとも思つたが、英國クルド・レディが私の婚姻事情を知らないのは当然である。なのでそこには触れず、先づ日本の若ものは、結婚を厭つてゐないと思ひますと応へた。もう少し考へて、多分かれら彼女らには

 「それぞれに自分の生きたい方向があつて、互ひのそれらが合はないから、結婚を撰択しないのではないでせうか。もしも二人が、互ひの生きる方向を尊重しあへるなら、事情は異なつてくるとも思ふです」

さう云つたら、レディは感心したやうだつた。醉眼の錯覚だつたかも知れないが、かういふ勘違ひは、そのままにしておきたい。併し醉眼になつてゐるのは、醉つてゐる印である。無礼を働かないうちに、場を離れるのが宜しからう。さう思つたところに、レディがスマートフォンの画面を見せて、そこには

 「お会ひ出来て、嬉しいです」

とあつた。日本語でどう發音するのかと訊かれたから、ゆつくり讀みあげてから

 「Aete Ureshii と云へば、もつと簡単です」

と附けくはへると、確かに云ひ易いですと、大きな笑みを浮べた。こちらも嬉しくなつた。おやすみなさい、よいお酒をと、さよならの代りに云つた。