閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1144 信頼と實績、歴史と伝統の牛蒡

 小海老やら人参やら玉葱やらを混ぜた種で作るのが、掻き揚げなのだらうと思ふ。そのまま食べてうまいし、熱いお蕎麦や饂飩に乗せてもうまい。天麩羅の一族の系譜を見れば、保守本流とは呼べない筈だが、本流から外れてゐるのかどうかと、旨いかまづいかは別問題である。世の掻き揚げ好き諸君は、気に病まずともいい。

 併し掻き揚げに限つても、種を一種に絞つたのは、更に本流から外れてゐると思はれて、細く刻んだ紅生姜、ざつくり切つた玉葱、それから牛蒡を代表格に挙げて、異論は出にくい(紅生姜は馴染みうすい讀者諸嬢諸氏も多からうが)んではなからうか。いづれも好もしいのは云ふまでもないが、この稿では、牛蒡の掻き揚げを注視したい。

 確かにどうも地味な野菜ではある。金平になつたり、サラドの種になつたりするし、豚汁や筑前煮きには欠かせなくもある。ことに筑前煮きの鶏肉との組合せは、出合ひものと呼ぶのに相応しい。それはさうとして、見た目が色黑で細い所為か、お皿でもお鉢でお椀でも、主役のやうな地位を占める気配は、感じられない。残念だなあ。

 

 話を逸らすと、牛蒡の原産地は"ユーラシア大陸の北部"ださうで、えらく漠然としてゐる。日本列島では自生してゐないが、縄文時代には栽培されてゐた気配がある。大陸渡りだつたのだらう。文献に限れば、『新撰字鏡』(九世紀末頃に成立した漢和辞典)が最古の記録。辞典に収められる程度には、知られてゐたことになる。但しこの頃は藥草扱ひ。その藥草が二百年を経て、平安末期には、食用に転じたらしい。どんな変遷があつたのだらう。逸れ序でに續けると、牛蒡を積極的に栽培し、叉食するのは、日本人くらゐだといふ。ざつと調べたら、栽培は中々に面倒さうな上、調理に際しての下拵へも、簡便とは云ひ辛く、何よりそれだけでひとつの料理を成り立たせにくい。馬鈴薯とは大ちがひだね。さう思ふと、千年近く、牛蒡を食べ續けた我われのご先祖は、餓ゑとは異なる筈の、どんな事情があつて、あの植物に執着したのか、不思議になる。

 

 要するに、世間の牛蒡を用ゐた料理は日本發で、我が掻き揚げも勿論、例外ではない。現代に繋がる天麩羅の原型は、江戸前期(十七世紀頃)、掻き揚げは同じく後期から末期(十九世紀前半)にかけて登場した。その成功を受け、蕎麦屋も天麩羅屋も、様々の種を試した筈で、少くない失敗もあつただらう。どんな種が失敗だつたたか、興味を感じなくもない。

 牛蒡がいつ頃に試され、且つそれがどんな経緯で、令和まで生き残つたかは判らない。粗つぽく、すりやあ旨いからさと云へば、話は済むけれども、だつたら、見かける機會が少い。妙ぢやあないか。さう不満を洩らす程度に私は、牛蒡の掻き揚げを贔屓してゐる。ただその一方で、牛蒡じたいを、旨いと感じるかどうかは、疑念もあると白状しておかう。

 あの色黑でほつそりした野菜の魅力は、味はひや栄養価でなく、歯触りと香り…総じて泥臭くて野暮つたいが、好意的に田舎風の素朴さと云へなくもない…に尽きてゐる。その歯触りと香りを樂むのに、細く切つた牛蒡で仕立てた掻き揚げは、實に都合がいい。塩か天つゆ(この場合に限つて、大根おろしは必要ない)でよく、或は蕎麦種にするのもいい。掻き揚げといふ調理法ゆゑ、空腹にも具合が宜しい。

 にも関はらず。

 信頼と實績、歴史と伝統を謳ふ牛蒡料理の専門店があつたら、堂々の主役を張るのは間違ひない掻き揚げを、意外なくらゐ、口にする機會に恵まれないのは、何故だらう。反牛蒡派のたくらみでも、潜んでゐるのか知ら。