閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

042 密ヤカナ愉シミ(後)

 腰痛が持病のわたしにとつて厳冬季はこまる。背中の肉が突つ張つた感じになるといけない。神経痛が顔を出してきて、うんざりして仕舞ふ。それだから奥多摩の方向を目指す数日前から気温が一ぺんに下つたのには参らされた。おまけに雪まで降つて、ああいふのは窓の外を眺める分には風情を感じるものだが、我が身に直接関はると迷惑以外のなにものでもない。数年前にニューナンブで熱海に出掛けたのを思ひ出した。前夜から降りだした雪が止まず、小田原から伊豆伊東方面行の電車が暫く運転見合せになつたし、熱海だつて雪景色で宿泊先に入つてから穏やかに眺めるまでは、荒天への繰り言が雪のやうに頭の中に降り積つた。あの時は全員がお酒を持ち寄つて呑みくらべをした。どうしてお燗を一本、つけなかつたのだらう。といふことを思ひながら眠りこんで六時半過ぎに起床。珈琲とトースト。暫くぼんやりしてから中央線に乗る。立川で立ち喰ひ蕎麦を啜りそこねて青梅まで。
 十一時前に青梅の改札を出た。右手側に[セブンイレブン]があつて、その辺りに覚えのある巨きなデイパックを背負つた人蔭が見えた。頴娃君でこちらが気づくのにあはせる感じで向ふも気づいたらしい。
「お早う御坐います」
我われは礼儀正しいので先づは挨拶。それからまさかいきなり顔を合はすとは思はなかつたねえと笑ひあつた。
「寒いねところで」
「風がなければ、いいのだが」
「それはさうと、どこに行きませう」
金剛寺に行かうと思ふです」
「すりやあ、いい」
といふわけで金剛寺を目指すことになつた。驛からざつと十五分くらゐらしいが、足元の雪が凍つてゐたから、もう少し時間が掛かるだらう。慌てる時間帯ではないから気にしない。ふらふら歩きながら、ふらふら撮る。ふらふら撮りながらさてどうしますかと話し合つた。晝めしをどうするかといふ問題である。お酒の會は十四時からなので、そのままだと空腹で呑みはじめることになる。それは避けたい。驛前に[ミスターニューラーメン]といふ怪しげな看板があつたけれど、流石に頼りたくはない。撮りつつ探したのは蕎麦屋で、いやわたしは蕎麦でなくてはならぬと思つてはをらず、かつ丼でもハンバーグでもいいのだが、どうも頴娃君はそれだと納得し難いらしい。歩いてゐる途中で大正とか何とかいふ蕎麦屋らしい看板があつて、惡くはなささうである。さうかうするうちに金剛寺が見えた。今時の経営なのだらう、幼稚園が併設されてゐて、雪の残る週末なのに車が沢山停つてゐる。寺門は少し奥まつた場所にあつて、見上げると竜と鳳凰が彫られてゐる。入ると意外に狭い。右手側に老いた風情の梅が植はつてゐて、東京都の教育委員会が用意した解説が添へられてある。讀んでみると同属の梅樹は他にもあるらしく、“瀧上氏所有云々”と記されてゐる。併しその“瀧上氏”がどこの何者なのかは一切触れられてゐなかつたから、武将なのか僧侶なのか豪商なのか、さつぱり解らない。左手の奥で雪掃除をしてゐた小父さんが聲を掛けて呉れたので、“瀧上氏”とは何者ですかと訊いてみたが、さてどうでせうね、一体この辺は瀧上姓が多いんです、檀家にも何人かゐますと云ふだけだつた。
 頴娃君が豪胆なのはひとにものを訊くのが平気なことで、その小父さんに
「ところでこの辺に蕎麦屋はありませんか」
「街道沿ひに二軒ありますよ」
そこで教はつた[わせいろう]といふお店に行つてみることにした。金剛寺の門を後にする時、幼稚園から子供たちが次々と飛び出てきた。そこから数分程歩くと[わせいろう]が見えてきて、お店の前では小母さんが金剛寺と同じく雪掃除をしてゐる。我われに気づくと
「お客さんですか」
「ええ、まあ。もうやつてゐますか」
「どうぞ、どうぞ」
さう云ひながら扉を開けて呉れて、店構へは惡くないから入るとした。席(窓側の卓子)に坐つて、さあ何にしませうかね。蕎麦屋なのだから蕎麦を啜るのは当然として、一ぱいくらゐ、呑みたくもある。この後呑むのだから、我慢するのが筋ぢやあないかといふ見方の正しさは認めるが、折角の休日に青梅まで足を運んだ蕎麦屋で呑まないのは非礼でなからうかとも思はれる。矢張り呑まう。さう決めてお品書きを睨むこと暫し。わたしは“澤乃井(一合)”に板わさ、頴娃君は“澤乃井 本醸造生”と玉子焼きを頼むことにした。お品書きには一合とあつたが、片口で出された“澤乃井”はもうちつと多かつた気がする。ゆるゆると平らげてから、もり蕎麦を一枚。蕎麦は十割でぼそぼそした感じがないのはいい。尤もつゆが少し計り頼りなく…蕎麦に押されてゐる風に感じられた…思へたのが些か残念。まあこれは無いものねだりでせう。全部で千八百円は妥当な値段だと思ふ。満腹した我われは[わせいろう]を出て、青梅驛まで歩いた。
 某驛で降りて會場まで数分。主催する藏が営む食事処には六十人ほどのお客がゐる。落ち着かない雰囲気はあつても、刺々しくはない。数寄者が集つてゐるのだから当り前であらうか。社長の短い挨拶があつて、先づ振る舞はれたのは今年最初の吟醸酒。何べんか呑んだことがあるが、例年より切れ味は控へめで、甘みが立つてゐるように感じられた。
「さう思ひませんか」
と訊いたら頴娃君はさうかなあと呟きながら、盃を傾けてゐる。續いたのは賣られてゐない、従つて(厳密には)無銘のお酒。(大)吟醸酒を仕込む際の澱になる。白く濁つてゐて、ほの甘く、背骨が頑丈な味はひ。元々は杜氏のお樂しみだつたといふから、些か申し訳ない気分にならなくもない。最後を飾るのはこの藏最高の銘だが、これも外には出廻らない。出來のいいのを撰んで斗瓶に分け、袋取りとかいふ手法で搾つたもの。鑑評會に出すので上等の中の上等と呼んでいい。その鑑評會は年に三度開かれるさうで、どの藏も気合ひの入つたお酒を出してくるにちがひない。想像するだけでも壮観で、審査員を羨みたくなつてくるが、審査はきつと何十の銘柄を含んでは吐き、吐いては含む繰返しであらう。吉田健一の『饗宴』でもそんな意味のことが書いてあつた。だとしたらこんなに詰らないお酒はないから羨望には及ばない。それに呑むなら肴が慾しくなるのは人情の自然で、鑑評會では塩辛も海苔も用意されないにちがひない。こちらの會には幾種かのつまみがちやんとある。お酒の美味いまづいはかういふ点でも影響されるから、鑑評會より質が高いと云へなくもなからう。献立をいちいち論評するのは控へるとして、特に感心したのを挙げると、先づは白子の天麩羅。やはやはした舌触りで濃厚なくせにしつこくない。佳いものを仕入れて、巧妙に揚げたのがよく解る。肴として食べた中ではもうひとつ、鱈のもと焼き(マヨネィーズから酢を抜いたソース)も挙げておかうか。併しそれより粕汁が矢張り出色の出來。吟醸酒の粕を用ゐたさうだから美味いのは当然と云へるかも知れないが、美味いものに目を瞑るわけにはゆかないでせう。どろりとした酒粕があまく、ほんの少し辛みもあつて、大根に牛蒡、人参、鮭を美事に調へてゐた。ゆかりご飯に添へられてゐたのだが、かういふ結構なお椀を肴に呑めばもつと嬉しかつたらう。次の機会があれば、試してみなくちやあ。
 會が終る前にお土産と称して今年の吟醸酒が四合壜で配られた。豪勢な話である。大事に抱へて羽村まで。驛に近いマーケットでお弁当や麦酒やチーズやお刺身を買ひこんでホテルに入つた。それで頴娃君と寞迦話を續けた。會場で隣に坐つた美女ふたり組とか、藏の二十年來の愛好者であるご夫婦とか(それぞれに面白い話が飛び出たのだが、ここでは触れずに措く)
「愉快な人びとだつたねえ」
「数寄者の集まりだから、こつちも安心出來るといふものですよ」
まつたくその通りの指摘で、さうでなくちやあ、足を運ばうとは思はない。ここで我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に申し上げておきたいのは、チーズとお酒は中々に侮れないんです。組合せによつては葡萄酒を凌ぐかも知れない。当り前に賣られてゐるやつに削り節、ほんの少しの醤油(酒盗や塩辛でもいいでせうね、きつと)があればもつといい。それで翌朝になると、お土産だつた筈の四合壜(ふたり合せて二本)はすつかり空になつてゐた。