閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

077 小道具バーガー

 さう云へば随分と長いこと、ハンバーガーを食べてゐない。記憶を辿ると数年前、松本に泊つて上高地に行く早朝、ホテルの食事が間に合はないから、驛近くの[マクドナルド]で、何やらを買つたのが最後だと思ふ。いやあの時はマフィンだつたから、所謂ハンバーガーだと、食べたのはもつと前になる筈で、さうなるともう、何年前になるのか、 自分でも判らなくなる。

 ハンバーガーにはハンバーグが不可欠で、どうもその原形は韃靼…タタールに遡るらしい。遊牧民であるかれらにとつて、馬は移動の手段と食糧を兼ねてゐたさうだが、何しろ食用の馬ではないから、食べるには堅い。そこで馬肉を刻んで食べる方法に辿り着いたのだといふ。野蛮だなあと云ふなかれ。タタールにとつて、これほど合理的な手段はなかつたらうし、旨かつたにちがひない。さうでなくては、タタールに散々悩まされた欧州人が、タルタル・ステイク(“タルタル”がタタールの転化なのは云ふまでもない)に舌鼓を打つまで到らないでせう。ここで疑問をひとつ。露西亞には“タタールの軛”と呼ばれる、遊牧帝國に蹂躙された歴史…二世紀半に及ぶ…があるのだが、かれらはタルタル・ステイクを食べるのか知ら。

 失礼。血腥い話は止めませう。わたしは臆病なんです。それで呑気な話に戻ると、刻んだ生の獸肉に香草をまぶすといふ食べ方に、大きな変化をもたらしたのは獨逸人だつたらしい。要は火を通すのがそれで、獨逸にも当り前にあつた(にちがひない)焼き肉の応用だつたらう。欧州人には濃淡を別として、古代羅馬の影響があるのは云ふまでもなく、古代の羅馬人は小麦のパンに何かを挟んで食べる習慣があつた。サンドウィッチの遠いご先祖と云つていい。獨逸人だけでなく、欧州人、時代が下つて米國人がそれを参考にしなかつた道理は考へられず、詰りハンバーガーは、この辺りの何百年かで、ゆつくりと完成に到つたのではなからうか。史料にあたつたわけではないから、信用されては困るけれど。

 ハンバーガー乃至ハンバーグは登場の当時、人気のある高級な料理、調理法だつた気がする。先づ異國趣味の食べものだし、肉を細かく刻むには手間が掛かる。それをステイク風に美味く焼くとなると、相応の技術と工夫が求められた筈で

「おう、ペーター、ちよいと腹が減つたな」

「判りました親方。角のフランツ爺さんの店で、ハンバーガーを買つてきませう」

なんて気樂に食べるのは、六づかしかつたのではないだらうか。仮に親方がうまいこと稼いで、フランツ爺さんの店に行つても

「儂んとこでは、今日は、無理だな。まあ、ブルストで、辛抱することだ」

と云はれて終りかも知れない。親方には気の毒だが、出回り始めの頃は、こんなものだつたらう。

 かういふ流れは先づ、肉を刻む技術…テクノロジー…と、焼く技術…テクニック…の發展で徐々に解消された筈で、何年を要したか、想像は六づかしい。挽肉を安価に、大量に用意出來る器械が、激変させたと思ふのだが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には如何だらう。ただこの激変が仮にあつたとして、ハンバーグ乃至ハンバーガーに幸福だつたのかどうか、疑問は残る。蕎麦や天麩羅、早鮓といつた、完成に到る間に洗練され、高級化した食べものとは逆に、安直廉価な方向で完成されたのではないか、といふ意味である。こちらにすればその安直廉価は有り難いと思へるのだが、タタールがどう感じるかは判らない。

 さてここで気になるのは、ハンバーガーは食事なのかといふ点。食事だよと笑ふそこの貴女。貴女はきつと、ハンバーガーにフレンチフライやちよつとしたサラド、珈琲がひとまとまりになつた姿を思ひ浮べてゐるにちがひない。わたしが云ふのは、ハンバーガーだけの話。どうもこちらの印象では、おやつに近い気がされてならない。景山民夫の“トラブルバスター”で、主人公が愛車の整備をしながらハンバーガーを頬張つた場面が記憶にあつて(いや、[ダンキン・ドーナツ]だつたかな)、あしらひが上手いなあと感心した。もしあれが、ツナ・マヨネィーズのおにぎりだつたら、様もならない。

 ところでこの場面のハンバーガーは、れつきとした食事といふより、“愛車整備の愉快”を豊かにする為の小道具と見立てるのが正しい。上高地に向ふ朝に食べたマフィン乃至ハンバーガーも、これから上高地に行くぞといふ気分を盛り上げる小道具だつた筈で、立ち喰ひ蕎麦では締らなかつたらう…いや松本なら、立ち喰ひでも旨からうから、盛り上つたかな。機会を見つけて、試してみなくちやあ。といふ疑問はさて措き、ハンバーガーはここまでの流れから、どうやら(少なくとも)(わたしにとつて)食事ではなく、遊びの周辺にある食べものであるらしい。ペーターや親方やフランツ爺さんには勿論として、タタールにも不本意だらうとは想像がつくが、ハンバーガーはさういふ完成の歴史を辿つたのだから、わたしとしてはいかんともし難い。それにピックルスをたつぷり挟み込んだチーズ・バーガー(とアイス・コーヒーかコーラ)は、遊びの周辺によく似合ふ。冩眞を撮り歩きながら、やつつけてみなくてはなるまい。