閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

882 その辺をひとつ、あれしてもらひたい話

 或る日、コンビニエンス・ストアでチキンカツ弁当を買つた。ああいふ場所で賣つてあるのだから、まづくはない。それを食べながら、チキンカツを食べる機會は案外に限られてゐると思つた。お弁当屋かマーケットの惣菜賣場が精々で、洋食屋は勿論、定食屋でもお目に掛つた記憶がない。

 さう云へば、我が國のカットレットは牛肉…ビーフ・カットレットから始つたといふ。豚肉…ポークのカットレットがいつ頃からのしてきたかは知らない。またポークがどんな事情で、ビーフを押し退けたのかも判らない。カットレットに限つては、ポークがビーフを凌ぐのは間違ひないから、ごく自然な変化だつたものか。

 ここまではまあ、いいでせう。

 そこにチキンが入つてきたのがいつ頃で、またどんな事情があつてなのか、どうも想像しにくい。冒頭で食べたチキンカツだつて、まづくはなかつたけれど、手を拍ちたくなるほどうまかつたわけではなく、何と云ふか、カットレット界では二軍の位置なのだと思はれる。

 念を押すと、チキンは惡くない。焼き鳥や蒸し鶏、腿のロースト、ソテーは大好物である。では揚げるのがいけないのかと云へば、唐揚げやチキン南蛮が浮んでくる。麦酒と唐揚げほど、夕暮れの空腹を満たす組合せは滅多に見つからず、たつぷりのタルタル・ソースが掛つたチキン南蛮を前に、口許の綻ばないひとがゐるとは思へず…チキンは喜ばしい食べものと云つていい。

 なのにカットレットだと、格の落ちる感が否めない。

 馴染みの問題なのだらうか。明治以降の肉食…西洋料理や洋食に近しい…が、牛豚を経て鶏まで拡つたのを思ふと、一理ありさうな気はする。明治以前の御先祖さまは鶴や鴫、鴨に舌鼓を打つてゐた。鶏の格はひくかつたさうだから、その流れが残つてゐても不思議ではなからう。ビーフ・ステイクやとんかつの名店老舗はあつても、鶏料理…チキンの例が思ひ浮ばないのも、ささやかな證拠になりさうである。

 だからと云つて、それだから

 「チキンカツはまづい」

といふ根拠にはならない。チキンカツが"カットレット界で二軍"なのは現状の事實だが、"一軍昇格の望み"はある。

 どの部位を使ひ、

 衣をどう用意し、

 どんな油で揚げ、

 そしてまた何のソースを添へるのか…詰り

 「"チキンのカットレット化"の最適解」

を成り立たすのが、昇格の即ち御馳走化の鍵になると考へられて、全國各地の洋食屋さんにはその辺りをひとつ、あれしてもらひたい。

 尤もチキンカツを御馳走にするのが最善の道筋なのかと、云はれたら、首を傾げざるを得ない。高級な路線はとんかつやビフカツに任せ、コンビニ弁当だのお惣菜賣場だのの一角をきつちり占める方向が似合ひさうな気もするし、その方が伝統的な鶏の格附けにも相応しい。全國各地の洋食屋さんにはその辺りもひとつ、あれしてもらひたい。