お酒と蕎麦と寫眞とカメラを愛好するニューナンブが殊の外重んじるのは打合せである。さういふのはメールなり何なりの方が、行き違ひを減らせるのではないかといふ聲も聞こえさうだが、またそれは正しい一面でもあるのだが、顔を見ながらの打合せは、互ひの気分がはつきり判る。“いやあ、それはなあ”と書くとの云ふのには大きなちがひがあるでせう。こんな時の文字はまつたく不完全だと云つていい。だから先づ、打合せて、概略を固める。細部はそこから互ひに詰め、詰めたらそれ…利用する特急列車のダイヤグラムだつたり見學の時間や値段…はメールなりの文字で確認する。我われの打合せは酒席を兼ねてもゐるから、勢ひで新しい思ひつきが出ることもあつて、それらを纏め、また摺合せるには文字の方が便利である。
それはさうと、“竹林ノ七賢”といふ言葉がある。3世紀頃の魏で、飲みながら清談に耽つた人びとと受け取つて、大体はまちがひでないと思ふ。清談は哲學とか政治とか思想とか、その辺りをひと纏めにした知的な会話と考へればよく、下手を打つと譬喩でなく首を飛ばされかねない時代に、度胸の据つた態度と云へなくもない。当時の中國にはそれだけの思想が生れ、また發達させるだけの土壌があつたのだとすれば、大したものと感心する見方も成り立つだらう。司馬遼太郎は古代の中國を東アジアで唯一、文明の光を發してゐたと評して(尤もかれが云ふ“文明の光を發し”た中國歴代の王朝は、隋唐くらゐまでらしいが)ゐて、振り返つて同時代の我が國は卑弥呼がどうかうといふ曖昧な時代だつたことを思ふと、かれの指摘は正しからう。卑弥呼が親魏倭王と胸を張つても、邪馬台國は所詮、未開の小豪族に過ぎなかつた。
話が逸れさうだから、大急ぎで元に戻すと、飲みながら清談を交はすのは實にいい。古代希臘にも似た風習があつて、飲みながらエロース讚美の演説を順繰りに行つたといふから、優雅ではありませんか。“竹林ノ七賢”がどんな清談を交はしたか、無學なわたしだからよく知らないが、美や愛を讚美はしなかつたらう。どうもかれらには、生眞面目…少なくともエロチックな話題を好まなかつた気配が感じられる。酒精のお供には些か物足りないと思はれるのだが、そつちの話に没頭してゐては、賢人と呼ばれるのは六づかしからう。さうなるとエロチックな話題を拒まないニューナンブは、賢人ではなささうだとなつて、別にそれはかまはない。賢人であるより、賢人の話を聞く方が樂しさうだし、杜氏だけでなく、お酒醸りに取り組む人びとがそこに含まれるのは、当然のことである。“それはさうと”から明後日に進んだと思はせて、話はちやんと戻る。
山梨県の北部の北杜市といふ小都市にある山梨名醸造で醸してゐるのが[七賢]である。
https://www.sake-shichiken.co.jp
会社の概要を見ると、創業は寛延3年。西暦にすると1750年だから、大政奉還のざつと120年前。御門は116代目の桃園帝、徳川将軍は9代目の家重。ここで確かめてみると、ニューナンブに馴染み深い奥多摩の小澤酒造は元祿15(1702年)、福生の田村酒造場は文政5(1822)年の創業で、18世紀から19世紀にかけて、東での酒醸りが本格的になつてきたのか知ら。17世紀中頃から野田や銚子の醤油が盛んになつてきたことと併せると、さう考へても大間違ひではなささうに思へる。[七賢]の銘は、これも会社概要を参照すると、天保6(1835)年、“母屋新築の際にかねて御用を勤めていた高遠城主内藤駿河守より、竣工祝に「竹林の七賢人」(諏訪の宮大工、立川専四郎富種)の欄間一対を頂戴”したのを契機につけられたと書いてある。何故この欄間だつたのかは判らない。竹林があつたのに因んでなのか。といふより、高遠の殿さまと縁が出來る近さだつたのか。
「どうなのかね貴君」
と訊ねた相手は頴娃君で、かれと話してゐるのだから、飲んでゐる。何故さういふ質問をしたかと云へば、かれは信州に地縁がある。地理の把握に長けてもゐるにちがひないと思つたからだが
「その辺は、よく判らんなあ」
残念ながらその場でははつきりしなかつたから、後で確かめると高遠のある伊那市と[七賢]を醸す山梨名醸がある北杜市は意外な程に近い。県境は当てにならないのだなあ。さう思ひながら、不意に伊那は信州で、信州と云へば味噌であることに気がついた。味噌は醸造食品であつて、きつと歴史があるにちがひない。それで味噌藏の情報を幾つか当つてみたが、明治大正の創業計りで何だか新しい。100年余りを新しいと云ひたくなるのは酒藏の古さに比較しての話だけれど、をかしいと思つたから、長野県味噌工業協同組合連合会に助けてもらつたところ
http://www.shinshu-miso.or.jp/know/
“信濃国筑摩郡(現在の松本市)出身の法燈国師「覚心和尚」が宋からみその製法を習い、帰国後布教のかたわらみその製法も広めた”といはれると書いてあつた。心地覚心は13世紀のひと。信濃國筑摩郡…今の長野県松本生れ。入宋して禅を修め、帰國後、今の佐久に安養寺を開創し、そこで佛道と共に味噌醸りを伝へたといふ。禅と味噌醸りとは妙味を感じる組合せだが、どうやら信州の味噌醸りはごく小さな規模…おそらくは地元で保存食作りに用ゐられたのたのではないか…で存續したらしい。それが文明開化を経て、大同団結に到つたのか。
ところで宋の味噌はどんな味だつたらう。
宗風味噌と[七賢]の組合せは似合ふか知ら。
流石にそれは和尚に叱られさうだし、宗風味噌が現存してゐるかどうかも判らないから、我慢するとして…いや、信州の味噌を嘗めつつ飲む[七賢]は旨いにちがひない。この話は酒席に出なかつた(といふより、その時点では知らなかつた。北杜と伊那は近い。うまくすれば肴になる味噌の入手も出來るのではないか)から、別途の案としておかうと思つた。
「如何です。初日は白州と[七賢]でお腹が一ぱいになりさうだし」
「未だ聞いてゐないよ。後で提案してくれ玉へ」
ところで打合せで議論になつたのは3日目、11月25日をどうするかであつた。例年であれば山梨県立美術館でミレーのお針子やポーリーヌに蕩け、帰途の特別急行列車に乗る。この時期の甲府市街は紅葉に恵まれることが多く、美術館の周辺も美事に彩られる。ただその場合、お晝ごはんが大問題になる。館にもレストランはあるのだが、残念ながら大して旨さうではない。筋向ふには観光客相手と思はれるチェーン店があつて、ここで食べた馬のもつ煮は劇的にまづかつた。残るのはコンビニエンス・ストアで罐麦酒とサンドウィッチを買ふくらゐで、好天と紅葉の下でやつつけるのは惡くないにしても、歓び勇める食事とは呼びにくい。甲府驛の近くにあるサドヤを見學して、ゆるゆる食事をしたためる方がよからうか。打合せを重く視る我われは慎重に
「どうやらこの辺りは、改めて」
「うむ。詰めねばなりますまい」
さうして席を立つ直前、頴娃君がさうさう、と云ひ出すには
「山梨名醸の近くに、蕎麦屋があるらしいです」
かういふ隠し玉を持つてゐるから、あの男は油断がならない。そこで品書きを見ると[七賢]は当然、白州でも蕎麦を平らげられさうである。これは竹林で清談に興じた賢人にも、我が覚心和尚にも、きつと想像出來ない贅沢にちがひない。