閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

293 鬩ぎ合ふ

 相も変らずパナソニックのGF1と同3を使つてゐる。カメラの話。GF3はほぼオリンパスのボディキャップ・レンズ(型番BCL-0980)の専用で、元々その積りの入手だつたから別に問題はない。序でに云ふとGF3には出來るだけお金を掛けないのを方針にしてゐる。ただ偶に物慾を感じる時があるのも事實であつて、具体的にはレンズ…28ミリ相当のレンズなのだが、リコーのGRⅢがより魅力的だからうつかりしないで済む。

 物慾が併し厄介なのはそれで収まるとは限らない点であらう。それでGF3向けに普通のレンズを用意するのも惡くないのではないかと思へてきてゐる。以前に同じ話を書いたことがあり、その時は“ボディキャップ・レンズ用のカメラとして買つたのに、本末転倒も甚だしい”と偉さうに云つた。だから前言を翻すのかと笑はれさうでもあるが、物慾はさういふ性質なのだと居直つておく。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にもそんな瞬間があるにちがひない。

 小さいこと。これが最優先の條件である。一ぺん手持ちのシグマをつけてみたら、そこまで大きなレンズでもないのに、ひどい恰好だつたから、余程にコンパクトでなくては、満足しにくいだらうとは簡単に想像出來る。そして想像しつつその視点で見るとまあ壊滅的なくらゐに見当らない。単焦点で云へばパナソニックの14ミリ、同20ミリと後は廃番になつたオリンパス17ミリ(暗い方)が精々か。この手の中口径レンズは賣れないのだらうな、きつと。

 ぢやあズームレンズは全滅なのだなと云ふと、意外なことに沈胴式オリンパス14‐42ミリ(電動のやつ)とパナソニック12‐32ミリがある。どちらも所謂標準ズーム。画角はパナソニックが、軽さはオリンパスが優位で、共通するのは駄目なスタイル。高額なレンズではないのだから、さうすればいいのに、妙な恰好つけが感じられるのがいけない。尤もこれは両者に限らず、マイクロフォーサーズに限らず、現代のレンズ全般にも云へるから(高価なレンズは幾らでもあるが、高級を感じるレンズはどこにあるだらう)、目を瞑つていいかも知れない。

 とは云へ“(そこそこの)広角から(それなりの)望遠まで”満遍なく対応出來るレンズに、どれほどの魅力があるものか。さういふ画角の変化に馴染んだのは、我われの不幸かも知れない。ズームレンズではタムロンの28‐200ミリくらゐしか感心した記憶がない…それも描寫ではなく七倍余りの豪快な画角の変化に対してであつた…のは、間接的な證拠になるだらうか。満遍なく使へるのだから、入手して損にはならないのは間違ひない。いや實際、手元にあるパナソニック14‐45ミリの初期型は、飛び抜けた性能ではないけれど破綻もなくて、GF1との組合せで大体は撮れる。GF3で使ふには些か大きいけれども。

 ボディキャップ・レンズが使つて愉しめるのは改めるまでもなく、“普通に撮る”のをGF1に任すのも誤りではない…何せ最初からその積りだつたのだから。従つてここまで書きながら、最良の判断は買はないことになる。論理的な結論でせう。その最良で論理的な判断と物慾の鬩ぎ合ひが、ここでは問題なのであつて、突き詰めてゆくと、理性と獸性の対立にまで話を進められなくもない。まあさういふ思考は二千年前の希臘人に任すのが賢明な態度かと思はれるが、流石に偉大な希臘人哲學者たちも、いきなり寫眞機を種に論じよと云はれるのは、迷惑至極の話ではあるまいか。