尊敬する内田百閒は日に一ぺんしかお膳につかなかつた。本人がさう書いてゐたもの。正しそれは一日一食でなく、お膳を用意して食べるのが一ぺんの意味。朝は英字ビスケットやら果物と牛乳、晝はもりかかけ(麦めしに塩辛い鮭や梅干やたくわんのお弁当を用意したこともあつたといふ)で、先生にとつては食事と呼び難かつたらしい。厳密な爺さんだなあ。尤もそのお膳は毎日ちがふ献立である必要はなかつたらしく、弟子筋の話だと、たとへば鰻が美味いと思へば何日も續けて鰻をお膳に乗せたといふから、用意する方は樂だつたか、うんざりしたか。
そこで不思議になるのは、朝食の場合、毎日同じでも樂とは思はない代り、うんざりも飽きもしない。わたしの毎朝はトースト一枚と珈琲で、百閒流儀で云へぱお膳ではないが、それで不満かと訊かれたら、さうでもないと応じる。朝めしはある程度、型に嵌つた方が安心するのか知ら。
併し麺麭と珈琲の朝として、トーストは勿論、クロワッサンやベーグル、菓子パンに惣菜パン、或はサンドウィッチが浮ぶ。珈琲にしても温かいのと冷たいの、ミルクや砂糖の有無の組合せが考へられる。広がりは意外に豊かである。と判れば、単純に型が決つてゐるとは云ひにくい。そこに玉子とベーコンをあはせるとしたら…何しろこちらも調理法は豊かである…、流石の百閒先生でもお膳につかうかと思はれるにちがひない。
さうなると朝めしは矢つ張りお米…ごはんだらうと反論されさうで、確かに自分の腹の具合を別にすればその指摘は正しい。では朝にごはんをたべるとして、麺麭と珈琲のやうや最小限の組合せは何になるだらう。お味噌汁。お漬物。佃煮や塩昆布辺りか。鮭や鯵、鯖の類はベーコンに相当する筈だから省くとして、京都風を気取るならお漬物を添へてお茶を淹れるだらうし、江戸式にゆきたければお味噌汁になる。要はごはんが冷たいか熱いかのちがひなのだが、このちがひがまた豊かな広がりを予感させる。
念を押すと朝に食べるのは麺麭とごはんのどちらがいいかを論じてゐるのではありませんよ。わたしの習慣はトーストだけれど、どこかに一泊した翌朝ならごはんを食べる。友人が勤める会社の保養施設で出す朝食は立派なもので、お櫃に入つたごはん、お味噌汁に何種類かのお漬物と梅干し、鯵の干物、冷奴、玉子焼きなぞがずらりと並ぶ。この"ずらりと並ぶ"のが大事で、お殿さま気分を感じますな。同じ豪勢で思ひ浮ぶフル・イングリッシュ・ブレックファストはビーンズやベーコンやプディングがうまさうでも、ひと皿に纏まつてゐるのことで減点したくなる。この辺りを突つ込むと日英の食器に対する感覚のちがひにまで話が進むから止めにするとして、そのお殿さま気分の朝食に壜麦酒の一本も奢ると、中々に優雅でいい…百閒先生にはきつと咜られるだらうが。
「朝から呑むなんて、お行儀が宜しくないよ貴君」
咜られるのは仕方がないとして、ただ朝めし的な食べもので一ぱい呑むと實にうまい。先に挙げた食べものでも、大体はつまみになる。菓子パンは六づかしさうだが、かるくて甘い果實酒(たとへばシードル)ならあひさうにも思ふが、まあここは何事にも例外はあるとしておかう。では(例外には目を瞑りつつ)朝めし的な食べものにつまみの魅力を感じるのは何故か知らと不思議になる。そこで考へるに先づ、片手でつまめるのが大きい。指でなくても匙やホークで食べられるといふこと。片手が常に盃またはコップで埋るのが呑ん兵衛の習性だから、もう片方の手で食べられるのが好もしい。
それから献立の量がそこまで多くないのもいい。胃袋がガルガンチュワ・サイズなら兎も角、こつちはリリパット・サイズである。ずらりと並べるのは小鉢小皿で十分である。かう書くと、矢つ張り朝から呑むのは感心しない、ベーコンでも佃煮でも炒り卵でも、晩ごはんに用意すれば済むぢやあないか。そんならお膳と酒席を兼ねるし、百閒先生にも咜られまい…と思ふ讀者諸嬢諸氏がをられるか。形式としては納得してもいい。併し晩の食事には晩に似合ふ食べものがあるもので(さう。英字ビスケットを夜につまみたいだらうか)、そこが崩れると旨いものも、さう感じにくくなる…或はなりかねないと云ひませう。ベーコンの脂にしても鯵の干物の香りにしても、朝の光と風があつて際立つので、その光や風も朝食に含めてよければ、リリパット・サイズのボリュームの方が寧ろ好都合と云へる。そんな風に纏めれば我らが百閒先生も朝からお膳について呉れるにちがひなく、檸檬を搾つた雪花菜を用意しておけば、麦酒くらゐは黙認してもらへるのではなからうか。三鞭酒までは流石に期待出來ないにしても。