閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

508 本の話~胸を張るお手本

『料理のお手本』

辻嘉一/中公文庫

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 "お手本"とはまた思ひきつた題を附けたものである。仮にわたしが"文章のお手本"などと附ければ、袋叩きにあふのは間違ひない。併し世の中には少いながらも、"お手本"を書ける…書いても不思議ではないひとがゐるもので、この本の著者をそのひとりに挙げてまさか異論は出ないと思ふ。[辻留]の初代辻留次郎を父とし、明治四十年に生れた嘉一は、わかい頃から裏千家に育てられ…料理人としての意味だが…、父から預つた料理屋を第一流に育て上げたひとだもの。それではお手本を示しませうかと云はれる前に、教へを乞ひたくなるのが、寧ろ当然である。

 云ふまでもなく辻は茶懐石の料理人なので、この本の視点はそこに置かれる。従つて(佛國や中國のやうな)極端な加工には冷淡な気配が濃厚に感じられる。直接に批判的な文言は欠片も見られないけれど、材料の撰び方や扱ひ方は、煮て蒸して焼いてから一度冷まし、それから揚げて熱いあんをかけるといふ手法に視線を送りもしない。勿論著者がさういふ調理法に無知であつた筈はないにしても、自分が語る範疇ではないと思つてゐたのだらう。まあ、さういふのがあつても、エエのやないでせうか。

 文章の物腰はごく軟かい。茶人のと長い附きあひの中で自然に体得したであらう軟かさである。下手がかういふ言葉遣ひをすると、謙虚の皮をかむつた厭みになるところを、さう感じさせないのは、その背骨に経験…失敗と成功に基づく膨大な知識があるからで、冒頭の「材料のえらび方、活かし方」を一讀すると

 三月の人形を作り、桃の花に切り、月の宴に、うさぎや杵の型につくりあげるなどは(中略)、大人の趣味としてはどうかと思われます。むしろ幼稚園児の趣味に近いのではないでしょうか。

 家庭のお総菜料理の味を深く極めることは、やがて鯛の刺身の生きのよい本当の鯛の味を知る道なのです。

などとあつて、何だか目の前で叱りつけられてゐるやうな心持ちになる。何だよえらさうにと反發したくなるひとも出るだらうが、少し讀み進めると、茹で方について触れた箇所では、實に廿七種を挙げ、勘所を記してゐる。その書き方は簡潔且つ具体的。文字に出來ない、勘に属する部分があるのは当然だが、"割切った分量を明記した料理本は、本当は不親切だとさえ私は考えます"とまで著者は云ふ。何といふ説得力か知ら。檀一雄も『檀流クッキング』で教へてくれたのは大雑把なところまで…ニンニクを叩きつぶして一塊。ほかにニンジンだの、タマネギの切れっぱしだのを、いい加減に入れる…で、茶懐石と素人の数寄料理に共通したところがあるのは面白い。檀は辻より五歳年長。世代としてはほぼ同じと考へてよく、あの時代に生れた料理人や料理好きに、かういふ傾向があるのだらうか。確めると[吉兆]の湯木貞一も明治卅四年生れで、かれの文章をちやんと讀んだ記憶はないが、矢張り出汁を二百ミリリットルに醤油を小匙一ぱいなんて書き方はしなささうに思へる。

 その辺は目配り心配りでせうなあ。

 著者ならきつとさう呟くに相違なく、またそれは正しい。辻はこの本で主に家庭料理について、その前提となる(さうかれが考へる)材料の撰び方や下拵へ、或は器や盛りつけのちよつとした工夫が大切なのですと厳密に述べてゐるに過ぎない。正直なところ、この本に書かれてゐることを残らず實践するのは、家で厨房を預かるひとにとつて六づかしいと思ふ。併し何もかもは無理にしたつて、少しは眞似出來る箇所はある。さういふことをぼちぼち試すのがこの本の樂みで、[辻留]流儀の厳密に縛られなくたつてかまはない。それでもあれがないこれもないと頭を抱へたくなつたら、檀流の"あるもので先づ作る"方式にならへば肩の力も弛まう。うなだれる結果になつても、先づは色々とお試しになるンが、宜しいと思ひます。と笑つてもらへるのではないか。たいへんに厳しいけれども、さういふ奇妙な期待を抱ける一冊で、"お手本"と胸を張るのに相応しい。