閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

573 稀な気分

 偶に、でなければ稀に、牛蒡を食べたくなる。

 あの気分は何でせうな、謎である。

 牛蒡の味が恋しくなる…わけではなく、マーケットのお惣菜賣場で、金平牛蒡だのサラドだのを見掛けたり、廉な蕎麦屋で牛蒡の掻揚げを目にしたりすると、食べたいなと思ふのに、三歩過ぎると忘れたりもして、繰返すが何だらうね、あの気分は。

 我ながら、よく解らない。

 

 判らないといへば、牛蒡の由來もよく判らない。

 日本の固有種でないのは間違ひないとして、原産地や入つてきた時期…縄文期の遺跡にも、栽培されてゐた痕跡はあるらしい…はまつたくあやふやである。

 まあ大体の場合、かういふのは大陸から流入したに決つてゐるが、そつちの記録だの何だのが曖昧であつて、詰りあちらの人びとは、牛蒡に値うちを見出ださなかつた、らしい。

 實際、あの根菜を常食するのは我が國くらゐださうで、戰時中、捕虜の食事に牛蒡を出したら、後になつて木の根を喰はされたと騒ぎになつたといふ。

 …半分くらゐは正しいか。

 

 我われのご先祖は、どんな経緯で、牛蒡を食べるに到つたのだらう。

 他に食べるものが無かつたからさ、と考へてもいいが、牛蒡の他に何も無いといふ状況が先づ、理解しにくい。

 それに藥草辞典に記されてもゐるから、どうやら、元は藥扱ひだつた筈で、だとすれば、典藥寮…朝廷内で藥と医療を担当した部署…で重視されてゐたと考へるのが自然でもあつて、餓ゑが切つ掛けと見るのは誤りだと思はれる。

 

 であればと、ここからは根拠無く想像をすれば、牛蒡を用ゐた藥を作つてゐたたれか、どうせ實務は下級役人に決つてゐるが、そのたれかが、烹たり焼いたり煎じたりする内に

 「藥用より、当り前に料る方が、エエんとちがふか」

さう気が附いたのではなからうか。

 それで同僚とこつそり濁り酒の肴にしてゐたら、上役に見咎められて

 「いやいや、こいつが中々、いけるンですワ」

 「ンなわけ、なからう(とつまんで)…いけるやないか」

まさかそんな筈はないか、コントぢやああるまいし。

 

 ところで。

 改めて考へると、これもまた不思議なのだが、牛蒡そのものの味がよく解らない。

 正直に云つて、獨特の香りと歯触りは妙であつても、牛蒡の味となると、首を傾げざるを得ず、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には如何か知ら。

 

 どうも自信が持てないので『檀流クッキング』を捲ると、百廿二頁の"キンピラゴボウ"の項に

 

 やっぱり、何といっても、ゴボウはあの歯ざわりと、匂いである。

 

さう書かれてゐて(わたしの印象は誤りでなかつた!)、その少し後には

 

 アナゴのタレで、黑く煮上げたゴボウもまた、何ともいえずおいしいものだ。

 

とも續いてゐて、確かに何とも旨さうである。そこで同じ本の百四十九頁、"アナゴ丼"の箇所を見ると、穴子の頭や尻尾を素焼きにして手鍋に入れ

 

 醤油、みりん、酒などで、ダシを作る。醤油や、みりんや、酒などの割り合いは、どうだって好みのままでよいので(後略)

 

檀いはく、その好みに煮詰めたタレを薄め

 

 ササガキゴボウを一瞬煮しめ、これを錦糸卵の上にのせて、食べるのが好きだ。ゴボウの匂いと、アナゴの匂いが、からみ合うところが、おいしいのである。

 

のださうで、食べてゐないこちらも、それはきつと間違ひない、さう膝を打ちたくなる。食べたくなる。文章の力といふやつは、時に迷惑な方向にも働くものだ。

 

 併し。

 併しである。

 旨さうに思へるのは、頭や尻尾で取つたタレの方で、牛蒡はその味を活かす材料に過ぎないのではないか、といふ疑念は残るし、金平牛蒡や掻揚げや千に切つたサラドでも事情は変らない。その辺は、ハムカツのハムが、衣を味ははせる材料なのと同じ…などと云つたら、熱心な牛蒡愛好家が厭な顔をするだらうか。

 尤も仮に牛蒡が、他の調味を引き立てる材料として、我われのご先祖(もしかすると、典藥寮の下級役人)が千五百年、それを育て續け、活かし續けたのだから、こいつは矢張り、大したものだと手を拍ちたい。では手を拍ちついでに、今夜は、牛蒡の香りと歯触りを、麦酒のお供に樂むとしませうか。