閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

786 梯子どんたく~昭島篇

 昭島驛に降りたのは午后二時過ぎ。かう書くと我が親切な讀者諸嬢諸氏は、チェック・インには早すぎではないかと心配して下さるだらうが、我われは東横インの會員である。會員は午后三時にアーリー・チェック・インが出來る。驛前のモリタウンだつたかで晩めしやお酒を買ふ時間を考へれば、寧ろ丁度いいくらゐと云つていい。

 

 先づ酒屋に立ち寄る。今夜の一本を撰ぶわけで、ここは慎重を期さねばならない。先づ目についたのは旦といふ銘柄。醸り方のちがひで三種類ある。以前に呑んで、中々旨かつたと記憶してゐる。これにするかと思つたら、その右上に澤乃井の中汲みがあつた。頴娃君が

 「こりやあ、いい」

と呟いた。頴娃君が買ふなら、旦を採らうと思つたところ、熟考の結果、かれが撰んだのは鍋島だつた。前回の昭島どんたくでわたしが買つた銘柄で、お裾分けしたらえらく気に入つてはゐた。確かに印象のよいお酒である。併し頴娃君が鍋島を買ふなら、こちらとしては澤乃井に敬意を示す為にも、中汲みを撰ぶことにした。四合壜で二千円足らず。廉なのは有難いが、商ひになるのか知らと不安にならなくもない。そこからヨーカドーに移つて、晩めしと摘みと翌朝のごはん、それから麦酒を買ひ込んだ。

 

 チェック・インは目論み通り、午后三時。素早く冷房を点け、麦茶を飲みながら煙草を一本喫つて、やつと落ち着いた気分になつた。窓の外から午后遅い陽射しが飛び込んでゐたから、西向きなのだと判つた。頴娃君も自分の部屋で落ち着いたらしく

 「四時半頃から、始めませうか」

望むところである。シャワーを浴びたら、汗が溶け落ちるやうな感じがして、気持ちよかつた。テレ・ヴィジョンを点けると、タイガースとドラゴンズの試合を中継してゐて、タイガースが莫迦みたいな点差で勝つてゐた。ドラゴンズ・ファンには申し訳ないが、更に気分がよくなつた。

 

 膝をつきあはして呑む、といふことに同意はあるが、我われは事前に慎重な判断をしてある。ツインの部屋にして、空間を広く取つた。更に頴娃君は簡易な組立式の卓を持ち込んで、自身のスペースを確保した。やるなあ、重い荷物だつたらうに。こつちはベッドのひとつを卓の代用にして、念の為に窓を開けておいた。

 よし乾盃。

 わたしはアサヒのエフ、頴娃君はトーキョー・ブラック。当り前のことを云ふと、うまい。寝床は確保済みだもの、心の余裕…安心感がちがふ。

 鯣のフライ。

 焼き餃子。

 お弁当のちまちましたおかず。

 トーキョー・ブラックを干した頴娃君はなだらかに鍋島へと移つた。こちらは麒麟のクラシック・ラガーを開けて翌朝の麦酒がないと気が附いた。仕舞つたと思つたが、開けたものは仕方がない。一階の自動販賣機に罐麦酒があつたから、後で買ひに行かうと決めて、澤乃井中汲みを開けた。

 含んであれと思つた。

 まづくないのは云ふまでもない。寧ろ上々である。とは云へ何となく坐りが宜しくない感じもする。をかしい。わたしの舌だからね、当てになりやしないけれど、落ち着かないのも本心で、理由は直ぐに解つた。暫く時間を置いたら、香りが膨らんで、舌触りがまことに滑らかになつた。葡萄酒がさうだが、お酒も冷しすぎはいけない。本來の味はひが隠れて仕舞ふ。クラシック・ラガーを開ける時、一緒に出せばよかつたのに、すつかり忘れてゐた。

 反省は反省として、頴娃君の鍋島を一ぱい、頒けてもらつた(勿論こつちの中汲みを一ぱい、差し上げて)口当りはごく柔らか。舌に乗せると、やや甘みが勝つてゐたが、それが喉の奥には残らない。簡潔に云ふなら、美味いお酒であつた。

 中汲みが着物をきちんと調へた壮年の男性なら、鍋島は意図的に少し着崩した(厭みにはならない程度に)女性のやうな感じ。美味いお酒はどうだつてうまい。残るのはその美味さが口に適ふかどうかで、我われは屡々そこをごちや混ぜにしてしまふ。中汲みと鍋島は、性格が異なりはするが、どちらもわたし好みの味はひで、かういふのは實に喜ばしい。買つておいたチーズを摘んでから、お休みを云つた。寝る前に罐麦酒を買つておかう。

 

 翌朝、窓外は既にけふも暑くなると云はんばかりに明るくなつてゐた。やれやれと体を起してテレ・ヴィジョンを点けると、英國でのトライアスロン大會の中継があつた。下らないコメントや音樂を聞かなくて済む。点けつぱなしで朝めしに取りかかることにした。

 前夜、就寝前に買つた麒麟一番搾り。中汲みの余りが少し。朝めしには散らし寿司を買つてある。お早うと乾盃を同時にするのは、前回の昭島どんたく以來で、この駄目な感じがまことに宜しい。ところでトライアスロンに就ては、わたしも頴娃君もまつたく知識が無い。併し眺めてゐると面白いから、気を取られた。速さ競べの単純さに、水泳自転車長距離走の駆引きや、撰手の得意苦手、競技の切り替への混乱が加はつて、スリリングである。

 「これはまた」

 「侮れんなあ」

一時間ほどを掛けて、朝めし朝酒を平らげた。荷物を整理してロビーで落ち合つた。簡単に精算を済ませ

 「けふはどうします」

 「都冩美でも行きますか」

それで昭島驛から快速に乗つたら、揺られてゐるうちに、ぐんと頭が重くなつてきた。妙だなと思ひつつ、新宿まで出たら、頭が重いだけでなく、お腹の底までどろんとした感じになつてきた。前日からの暑さ…本当は熱さと云ひたい…と久しぶりの泊呑みで、体がびつくりしたらしい。頴娃君には申し訳ないが、無理を押すと却つて迷惑を掛けかねない。ここで解散としてもらつた。中野驛まで戻つてから地下鐵に乗り継いで帰宅した。晝寝して早寝した翌日は有給休暇である。洗濯をしなくてはならない。