閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

614 ね

 鯵フライについては何度か、或は何度も触れてゐる。

 どうもわたしの舌は廉に出來てゐるらしく、干物やたたきや押し寿司も好物なのだが、鯵の料理と聞いて最初に浮ぶのは鯵フライなんである。

 我が國で鯵は、古代から馴染みの深い魚であつた。味がいいから、といふのを語源とする説があつて、疑はしいなあと思ひつつ、気持ちは解りもする。實際うまいんだもの。

 そんなら伝統的な食べ方に落ち着きやしないか。

 まことにご尤も。ではあるが、幼い頃、食卓に鯵の姿を見る機会は殆ど無く…鰯と鰈と鰆と鮭に馴染んでゐた…、従つて伝統的な鯵料理を知る機会も得られなかつた。

 旧國鐵田町驛からほど近いところに、[清瀧]といふ居酒屋があつた。廉で酒肴を樂めたので、友人たち…即ちニューナンブを名乗る不逞の集団で散々通つた店だが、髄分前に暖簾をおろした。残念でならない。

 その[清瀧]で我われニューナンブが好んだ肴が、"けふのお刺身の四点盛り"で、七百円くらゐと記憶してゐる。何が盛られるかは、その日の仕入れ次第。多くの場合、赤身二種類に白身三種類、それと貝類だつた。

 「待て。それぢやあ数が、合はない」

すすどい讀者諸嬢諸氏は首を捻るだらう。その通り。"四点盛り"と称しつつ、おまけが二点、ほぼ必ず附いてゐたんである。最初から"六点盛り"でもいいのにと思つたが、"四点盛り"を註文して、"六点盛り"が出てくる方が、得をした気分になるのも確かで、詰るところ罠に嵌つてゐたわけである。

 「待て。"四点盛り"…實は"六点盛り"と鯵に、何の関係が」

厳密に云ふと、直接の関係は薄い。但しおまけの二点に、鯵のたたきが含まれることはあつたし、仮に含まれなくても、別の一品に鯵のたたきがあれば、註文に躊躇は無かつたとは云つておかう。生姜醤油でやつつけるのが旨かつた。

 思ひ出し序でだからもうひとつ。こちらは事情があるから名前を挙げないけれど、熱海に泊つた時の朝めしに鯵の干物が出されて、これが旨かつた。小旅行の朝めしだから、壜麦酒を呑んだのは勿論だし…併し旅先の朝、呑まないひとがゐるのか知ら…、普段とは異る気分だつたのを差引きする必要はあるにしても、旨かつた記憶をまづかつたと改竄して、何の得にもなりはしない。

 かういふ話をしたのは、鯵の伝統的な料理にも無知ではないのだと云ひたいが為で、ここからは鯵フライに戻る。

 ところで何故、鯵フライを鯵料理の代表格のやうに扱ふかといへば、塩焼きや干物やたたき、或は押し寿司に較べ、食べる機会が一ばん多いからである。安直だなあ。併し鯖と云へば味噌煮罐詰とか、鮭は塩焼きとか、鰯ならオリーヴ油漬けとか、身近な調理法がその魚の代表格に思へることは、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にだつてきつとあるでせう。なので反省はしない。

 では鯵フライをどこで見掛け、また食べるかと云ふと、たとへば町中の(些か寂れた)定食屋だつたり、マーケットの特賣だつたり、廉な居酒屋の"今日のお薦め"に書かれたり、ではなからうか。いかにも安つぽいと呼びたくもなるが、鯵フライを愛好する立場としては寧ろ

 「晝でも夜でも、家でも店でも気らくに食べられる」

メニュであると云つておく。醤油やぽん酢を用意すれば、ごはんのおかずになり、タルタル・ソースやウスター・ソースを使へば麦酒に適ひ、サンドウィッチの種にしても(この場合は千切りキヤベツもたつぷり。またソースにはマスタードを忍ばせたい)また宜しい。

 ね。

 同意を(大きな聲で)求めたいのだけれど、眞面目な讀者諸嬢諸氏は再び、首を捻るだらうとも思ふ。そこでもうひとつ理窟を捏ねれば、鯵フライはどうやら我が國獨特の料理…天麩羅から転用された調理法であるらしい。やれた鯵を食べさせる為だつたかどうかは兎も角、巧い工夫をしたものだと褒めるくらゐは許される。西洋料理では魚…少くとも鯵をディープ・フライにして食べる習慣は無いさうで、何となく不思議ではある。ロンドン辺りで鱈の代りに鯵を使つたフィッシュ・アンド・チップスの店を出したら、案外評判を取れるのではないかと思はれる。英國の紳士が、ちよいと目を丸くしつつ、ふむうまいものだと呟く姿を見て

 「ね」

と云ふくらゐの愛國心なら、まあ叱かれる心配も無からう。