閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

995 洋食(屋)に就て

 何日か前、買つたお弁当…どこだつたか、洋食屋監修を謳つた、ハンバーグとクリーム・コロッケ…の画像を見て、さう云へば(私の知る範囲の)大坂に、洋食屋は少いなあと思つた。東都には[たいめいけん]だの、[ヨシカミ]だの、[ぺいざん]だのと、好きな洋食屋があるのに。

 日本人の舌に適はして、従來の両立手法を、西洋料理に用ゐて成り立つたのが、洋食である…などとは、わざわざ我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に、説明する必要はありますまい。これもまた改めるまでもないでせうが、洋食の成立は明治から大正にかけてで、我が國の食卓が最初に体験した激変であつたと云つてもいい。

 その激変の大波を受け止めたのが東都であつた。何故だらうと考へるに

・事實上の首都であり、高級な學府が集中してゐた。

・外國人が少からず滞留する、唯一の大都市だつた。

・それに、立身出世を望む若ものも、集中してゐた。

といふ西洋料理が入り込み易い環境と、新しものに飛びつきたがる若さの軽薄の、混在した姿が浮んでくる。かういふ條件を満たした都市は当時、大坂でも京都でも奈良でもなく、江戸から改称した東京以外には無かつた。勿論ここで

 京坂奈は、伝統ある大都市ですから。

 東京とはちがふのですよ、東京とは。

 と意地を張ることも出來なくはない。一方でその伝統を旧弊守旧、惡しき頑固と見立ても出來るわけで、どちらに与していいものやら。近畿人大坂人の私であるから、意地張りに附き合ひたくなるし、一般論風に云ふと、伝統は伝統ゆゑ、尊重されねばならぬとも思つてゐるのだが、事を洋食に限ればどうも分が惡さうな感じがつよい。

 

 實際、長いとは云へない…あまく見積つても百五十年程度だもの…にしても、洋食屋には洋食屋の伝統が出來てゐる。それを育てたのが、初期の東京人なのは確かとして、かれらに影響を与へたのは、江戸ツ子の気質であつた。廉な軽食だつた蕎麦や鮓、或は天麩羅を、御座敷に出せるまで、洗練さしたのが江戸人だと云へば、解つてもらへるでせう。

 有り体に云へば、江戸は京坂奈とは異なり、開府以來の歴史が短い、詰りわかい大都市だつたから、都市民下層民が、自ら伝統を生み、洗練させざるを得なかつた。新奇な西洋料理を受け容れ、その日本化に發揮されたのは、江戸といふ町が持つてゐた"若さ"といふ制約…序でながら、今の東京も同様で、昭和廿年以降の歴史しか持たない点は、もつと注視していいと思ふ…が、背景にあつたのではなからうか。ずしりとした伝統が醸成され、残りもしてゐる旧大都市群には持てない軽みである。

 

 ここまで考へた時、大坂にラーメン屋みたいな洋食屋を目にした記憶がないのは、その辺りに理由が潜んでゐさうだ、と推察も出來てくる。食べものの嗜好と指向は本來、長いながい時間を掛けて変化する性格を持つてゐて、伝統が重い棉の塊のやうにぶら下がる町で、変化の度合ひが緩かになるのは寧ろ当然と思へる。であれば我が古郷に、[たいめいけん]や[ヨシカミ]、[ぺいざん]といつた好もしい洋食屋が軒を並べるまでには、まだ暫く待たねばならず、果してこちらの余命が保つものかどうか。