閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

218 ウィークポイント

 時々知人から、貴君のウェブログは長くて閉口すると云はれる。さうかなあと思ふ。この“さうかなあ”は可成り曖昧な“さうかなあ”で、先づ長いかなあといふのがある。それに閉口してゐる筈の知人も、長篇小説は讀んでゐるから、どうして閉口するのだらうといふのもある。もしかすると、ウェブといふ場所…媒体が、長文(自分が書いてゐる分にはさう思はないが)に適さないのだらうか。その可能性はあるかも知れない。確かにこちらもウェブログなどで長めの文章を讀むのは、若干以上の抵抗を感じるもの。併しそこにはディスプレイを見つめると、甚だしく目の疲労を感じるとか、背景とフォントの色配分が惡いとか、さういつた事情も混ざつてゐる。長さにすべてを帰結させるのは、無理があるだらう。

 もつと云ふと、長篇小説に馴れた知人は兎も角として、長文に馴染まないひとが多くなつてゐるのではないか。有意の統計があるわけではないけれど、『女ざかり』(丸谷才一/文春文庫)のやうな本格的な長篇小説どころか、『私本 源氏物語』(田辺聖子/文春文庫)といつた短篇連作ですら、讀むのが辛い…といふより讀めない、讀みたくない、さういふ人びと。別にさういふ人びとを論難する積りはない。勿体無いなあとは思ふけれど、『女ざかり』や『私本 源氏物語』に熱中するのは一種の娯樂…惡癖なんです。近寄らずに済むならそれに越したことはない。但しそれは文學に限られた話。相手が仕事の報告書や論文、或は調べものの資料なら讀まなくてはならないでせう。否も応もあつたものではない。

 「いやあ、報告書も論文も資料も讀まないよ、必要がないもの」

と笑ふひとがゐたら、それはそれでいい。世の中の文章は小説と報告書と論文と資料だけではないからね。では恋文だつたらどうだらう。仮にわたしが書くとすれば、委曲を尽し、レトリックの限りを用ゐる。引用は勿論、剽窃だつて厭はない。前者は兎も角、後者はいけないよ、と思つてはいけない。恋と戰争の前では、有効と判断出來る限り、あらゆる手法が許される。それで書いて書いて書く。きつと膨大な分量になる。そこから削つて削つて削る。それでも相応の長さになるとは想像として容易である。さういふ心のこもつた(テクニカルな文章を冷淡と断ずるのは軽率である。不器用な文章が必ずしも誠實とは云へないのと同じ)恋文が、貴女の手元に届いたとする。差出人はわたしと考へなくていい。貴女の思ひ出に潜む初恋のあのひととしませう。讀みますよね。短篇小説のやうな、またはそれよりたつぷり書かれてゐたつて、讀まない筈がない。…といふのは極端な例としても、長文に馴染みが薄いから讀まないと考へるのは、少なくとも一面でしかとらへてゐないことになる。

 さうすると、この手帖に関して長いよと云はれるのには、別の事情がありさうである。何だらうかと考へ、まさか歴史的仮名遣ひを用ゐてゐるからではあるまいな…と不意に気になつた。確かに讀みにくいよと云はれたことはある。併し本当か知ら。甚だ疑はしい。現代仮名遣ひが歴史的仮名遣ひを基に作られた(作り方の是非には触れない)ことを思へば、讀むのにさほどの苦心は要さない。多少の差異はあつても、全体から見れば気にはならない筈である。はつきり云つて仕舞ふと、歴史的仮名遣ひを讀み辛いと感じるひとは、現代仮名遣ひだつて讀み辛く感じるに決つてゐる。嘘だと思ふなら、中公文庫か旺文社文庫の内田百閒を讀んでみ玉へ。どちらも歴史的仮名遣ひで収録してあるが、讀むのにまつたくこまらない。或は丸谷才一を。實に面白いもので、詰り仮名遣ひを理由に挙げるのは正確な見立てではないと考へていい。

 さて。實はこの話題、そろそろわたしにとつて具合が惡くなる。本当はお茶を濁したいが、折角ここまで書きもしたのだから、腹を括つて續けたい。どうです、正直な態度でせう(えへん)それで何が具合惡いかと云へば、前段の最後がそれで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏はきつと

「内田百閒や丸谷才一つて、すりやあ、あなた」

と思つたにちがひない。たつぷりの分量を、たつぷりと讀ませる、言葉の正しい意味での名文家なのだから、その感想もまた正しい。これくらゐになると長さは問題にならない計りか、あつさり切り上げられると寧ろ不満を覚える。覚えて仕舞ふもので、小説でも随筆でも、面白いものは終らないでもらひたいと思ふのは人情なのは云ふまでもない。かういふ感覚を極端に突き進めると、『ガリア戰記』の日本語訳を、岩に刻まれた文字のやうな讀みにくさだが、そんなことは些細な問題だと評するに到る。たれの評だつたか忘れたのは残念だが、凄い褒め方ですよ。翻訳者は頭を抱へるだらうが、これもまた些細な問題であらう。

 併しまづいですね、これは。何がまづいと云つて、“閉口される”事情を、どうにか讀者諸嬢諸氏に帰せられないかと思つて、ここまで書いてきたのに、不利な材料しか出てこない。そんなのは当り前さと云はれれば反論の余地はないが、致命的にも感ぜられて困つてゐる。ただひとつ、方法として考へられるのは、ここまで挙げたマイナスの要因をどうかすれば、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏を閉口させずに済む長文に到る希望はある。實現までにどのくらゐの時間が掛かるのか、さつぱり判らないが、進む方向が見えたのは決して惡い話ではない。さうでせう、奥さん。