記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。
この映画の舞台は、怪異が人びとの隣にあつた時代。
平安の頃、惡霊や鬼は、疫病や天災と同じく現實的な問題であつた。佛教がもてはやされたのは、悟りなどの観念ではなく、土着の(宗教的な)技術では効果が薄まつた咒の持つ"實際的な効能"で、それは当時、最先端の科學だつた。
筋立ては簡単。
道尊がみやこを我がものにせんとたくらむ。
その怪異とたくらみを晴明が打ち払ふ。
それだけのことで、早良親王…物語以前にうらみを抱いて死んだ…や、人魚の肉を食べて不死になつてしまつた女は、話の飾りつけと云つていい。
真田広之は樂さうに惡役を演じてゐるし、野村萬斎もまた余裕たつぷりに、おそらく意図的だらう舞台芝居じみた立ち居振舞ひを見せてくれる。ベテランの丁々発止は宜しい。
不満は三つ。
第一には特撮。かういふのは無理に派手を狙ふのでなく、怪談話めいた演出…たとへば夜と篝火の多用…の方が嵌つたと思ふ。ことに鬼が作りものめいた姿だつたのは頂けない。
第二はみやこの描き方。有り体に云へば貧で鄙な当時の日本を、綺麗に巨きく見せたのはどうだらう。ことに大通りの道幅の広さは、何とも時代に不釣合ひであつた。
ここまでは我慢する。
我慢ならないのは源博雅を演じた伊藤英明で、博雅は物語の途中、(些か唐突に)晴明と並んで"みやこを護る者"…詰り話の鍵を握る人物と明かされる。それはいい。いいのだが、そこに伊藤を配したのは致命的な失敗であつた。道尊と向ひあつて圧倒される博雅の場面が、真田広之に圧倒される伊藤英明に重つて、すつり興が削がれたし、博雅の死を嘆く晴明の慟哭も同様だつた。實に勿体無い。
尤もその慟哭の後に繰り広げられた晴明道尊の対決は、演舞の野村萬斎と演武の真田広之が噛み合つて、晴明操る咒…即ち科學が、道尊の体術を封じ込めるといふ見応へのある場面になつた。細かいことを云ふと、同じ陰陽師であつた筈の道尊が、晴明の咒に無頓着過ぎたのではと思へもするが、流麗なからだの動きは、脚本の疑念を凌駕する。野村萬斎真田広之に注視すれば、不満を感じにくい一本と云つていい。