閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

694 レインボー・ライン

 いつ撮つたか忘れた、といふのは嘘で、画像の情報を確めるのを怠けたに過ぎない。随分以前なのは間違ひなく、大慌てで撮つたのは記憶にある。自然現象は油断すると直ぐに失せて仕舞ふ。その画像を加工したのがこれで、何か一文を草する積りだつた。思ひ浮ばなかつた。

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 それで気が附いたのは、画像には一文を書き易いのと、さうでないのと、厳然とした区別があるらしい。画像の出來が良いか惡いかとは別の話。説明が必要だつたり、自分の思ふところを示すのに適した画像なら、まあ一応のところ、すらすら書けるし、稀には画像に触發されることもあつて、さういふ画像は前者に属する。そこまでは解る。

 では後者にはどんな画像が属するものか。そこがよく解らない。たとへば今回の画像は一種の風景だが、風景だからと云つて書きにくいとは限らない。前々回の[残照好み]も風景だつたのが、ささやかな證拠になると思ふ。詰り文章と画像…冩眞には、ひよつとして主從関係、或は共犯関係があるのだらうか。

 さういふこともあるだらうし、さうでない場合もある、と考へるしかないよね、併し、實際のところは。

 だいいち画像の出來と同じく、関係の有無と良し惡しは別の話でもある。そこに主観といふか、感情まで混ざつてくると、一定の法則性を見出だすのは、困難と云ふより無理筋である。尤も無理を通したところで、文章や冩眞、それらの組合せの出來に変化が生じる筈もない。線の引き方はどうしたつて曖昧なままであつて、それをどこから發してどこへ辿り着くのか解らない虹に喩へるのは、をかしな態度だらうか。