閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

781 幸せな三位一体

 毎度同じ話を繰返すみたい、というより、實際繰返しているのを気にせず云うと、呑むのと食べるのはわたしの場合、ほぼ一直線に結びついている。旨いものを食べたら呑みたくなるし、摘みのない酒席なぞ考えたくもない。それが人情の正しい發露だし、呑み助にはあらほましい。酒精と摘みは相携えて歩んできたし、歩んでいるのだから、当り前の態度というものだろう。

 懲りもせず呑み屋の話をする。思うに適当に狭く、客あしらいが上手で、摘みの旨いのが、好もしい條件ではなかろうか。酒精の品揃えはどうかと指摘されれば、摘みに気を配る店なら心配はなく、仮にありふれた種類しかなくても、摘みがそこを引き立てにかかるから、矢張り心配はない。ありふれているのは、それだけ受け入れられている證でもある。

 

 沖縄の銘柄なので、泡盛のひとつに、残波がある。廿年近く前、沖縄市に短期間滞在する機會があつて、地元の若ものと呑んだのは、残波が多かった。泡盛と聞いて聯想する癖が少く、わたしのような泡盛の素人にも實に呑み易かった。その残波を到るところの呑み屋で見掛けたのは、會社の営業努力もあったろうが、色々のちゃんぷるーに、島辣韮に、テビチーやミミガーと一緒に、呑んで旨く、ちゃんぷるー(以下は略す)もまた、旨くなったからで、酒精と摘みと呑み助の理想的な関係があったなあと思える。

 さて本州に戻ると、泡盛の立場にあるのが日本酒…お酒なのは、云うまでもない。そこで浮ぶのが、"いいお酒"ってどんなだろうという疑問。純米で精米の歩合がどうで、ここのお米とあすこの水で、と挙げられはするし、そういうお酒は確かにうまい。とは云え、"うまい"お酒が"いい"お酒とは云いにくい。稀に酒藏が凄い気合いで醸ったお酒…鑑評會に出品するような…を味わえる機會に恵まれると、香りの立ち方や舌触りや喉の滑り具合や後から昇る香り、要するに味と呼ぶしかない感覚に驚かされる。それは間違いないのだが、じゃあこいつで、おでんをつつきたくなるとか、鯵の干物を毟ろうとは思えない。

 

 聞くところによるとお酒の鑑評會は、含んでは吐き出しまた含む繰返しだそうで、實に詰らない。焙った油揚げも青菜を炊いたのも、海苔も山葵も塩すらなくて、こういう場所に出されるお酒は、食べることに目を瞑った、云わばお酒に純化した醸りになるんではなかろうか。杜氏諸氏諸嬢の精進を思うと、それを簡単に駄目とは云えないが、その食べものを拒むくらい純化した味に、ファッション・モデルの脹ら脛のような病的さを感じるのもまた、本心なんである。

 日本の葡萄酒にも同じ傾向がある。わたしが訪ねた葡萄酒藏で試飲したのは(大した数ではないよ)、上等になればなるほど、葡萄酒自体のうまさを追い求めて、肉や魚やチーズとの同席を拒む感じがされた。もしかすると葡萄酒の品評會場でも、何ひとつ摘まめるものがないのだろうか。そうやってあすこのワイナリは素晴しい仕事をした何とか、批評を求められるなら、ソムリエは可哀想な立場と云える。

 同情はさて措き。お酒でも葡萄酒でも孤峯を目指すのは、何であれ突き詰めたがる、我が國職人の癖と云えばそれまでかも知れない。としても、現場にいるひとは、今自分が醸っている葡萄酒(お酒も同じである)が出來上ったら、好物でこいつを一ぱい、きこしめたいとは考えないのか知ら。不思議になる。わたしなら途中でこっそり、摘み呑みをしでかす。こういう男は藏に出入りさしてはいけない。

 藏に出入りが許されない男が、酒精の顔を拝めるのは、詰り呑み屋の卓となって、それは一向かまわない。〆鯖にお漬物、煮込んだ牛肉にピックルス、時に海老フライがあって、何の不満があるものか。わたしは海老蟹の類を積極的に喜ぶたちではないけれど、上手が挙げた海老フライは、衣のかるい口触りと、身の歯応えがそのまま味に感じられる。こういうのを摘みに呑むのが、愉快で旨いのは改めるまでもない。酒精と摘みと呑み助の幸せな三位一体はきっと、こんな瞬間に訪れるのにちがいない。