閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

782 樂みの地図

 呑み助もある程度になると、流れが出來る。流れと云うのは最初は某所Aで麦酒と串焼きを、そこから別の某所Bで葡萄酒にチーズ、最後は某所Cに移ってお酒と焚きもので〆るとか、そういうことを指す。好きな呑み屋、お馴染みの呑み屋が何軒かあるのは、人生の豊穣を示す條件のひとつといってよく、それを上手に嗜みまた樂みたいものである。この稿で云う流れは、その樂みの地図のようなものか。

 樂みの地図だから一枚きりの必要はない。寧ろ何枚か持っておきたいもので、我われはその日の体調や晝の食事会は勿論、お日さまの照り具合や風の吹き方、目に入った言葉や文字や画、そういったものの総体として、焼き餃子を摘みに壜麦酒を一本、のんびり呑むところから始めようとか、紹興酒で玉子とトマトの炒めものをやっつけたいねえとか、色々の気分が醸成される。どんな風に醸成されるかは、その日にならないと解らない。

 詰るところ、梯酒だろう。

 などと簡単に正解を云われても困る。詰るところを詰らせないのも、呑み助の游びなので、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、この手帖の藝風は御承知ですよね。

 ところでバイキングと呼ばれる形式がありますな。様々な食べものを好き勝手に取れるあの形式。北欧の海賊兼商人が始めたとか好んだとか、謂れはないらしい。併しスウェーデンだったかには、スメルガス・ボードというご近所の持ち寄りパーティが大發展した形式があって、賑々しく愉快そうである。我がスウェーデンの讀者諸嬢諸氏から、招待状が届かないか知ら。

 そのバイキング…いやスウェーデンに敬意を表して、スメルガス・ボードを堪能するこつを御存知ですか。ものすごく簡単で、コース料理を食べるように取るのが、一ばんいいのだという。我われは屡々、並んだ大皿の偉容に昂奮した挙げ句、ロースト・ビーフだの、サモンのマリネーだの、鮪の脂だので手元のお皿を埋めつくす。お行儀が宜しくない上、あれもこれもと慾張るうちにお腹が脹れて、何を食べたか判らなくなる。勿体無い。コース料理が空腹を刺戟し、満腹を感じさせ、穏やかに収める順序で成り立っていると考えれば、スメルガス・ボードを満喫する為の理窟にも適っている。

 いきなり北欧に飛んだのは、スメルガス・ボードを思い出したからではなく、スメルガス・ボードを堪能する順序が、我われの樂みの地図にも転用出來るからで、ここからはスメルガス・マップと呼ぼうか。

 呑み助…というよりわたしは、お刺身からピザまで何でも揃えて皆さまのご來店をお待ちしております式より、お酒や麦酒や葡萄酒や焼酎に絞って、それに適うお摘みの充實している呑み屋を好む。鶏の唐揚げとソーセイジの盛合せと〆鯖とお好み焼と鮪のぶつ切りを同じ卓に並べて喜べたのは、四半世紀前までで、胃袋が老いたと云われたらその通り。若かったなあと遠い目をしましょうか。

 少しえらそうな態度を取ると、四半世紀もあれば嗜好は変化するし洗練もする。総花式の呑み屋…有り体に云えば、チェーン方式の居酒屋…がどうしても目指さざるを得ない、そこそこの値段で平均的な味の食べものでは、不満が溜まる程度には、こちらの舌も経験を積んだと云っても、許してもらえましょう。要するに串ものでも焼きものでも揚げものでも煮ものでも蒸しものでも、きちんと手を掛けたお店に好感を抱くようになるし、そういうお店は総花式の品書きを用意出來ないのだなと判る。判ってくる。

 そうなると、和風の煮ものはここ、中華の炒めものならあすこ、ソテーやフライは別のあすこと、頭に入れておくのが大事なのは、念を押さずともかまうまい。それらを巡る順番を諸々の條件を踏まえつつ、概ね前菜からデザートに準じれば、醉いも穏やかになるのだが、こいつがむつかしい。だから地図が必要で話がスメルガス・マップに戻ってきた。

 併し一枚のスメルガス・マップを抱えて、いつも綺麗に纏まるとは限らない。お目当てが混んでいたり、臨時で休みだったりはあり得るし、ふと目に入った暖簾や看板に気を取られることだってある。そこですっぱり、今夜は帰ろうと判断出來れば、そもそも呑み助ではないので、喉は酒精を、舌はお摘みを求めているのだから、可及的速やかさをもって対処しなくてはならず、二枚目三枚目のを懐に忍ばせているかどうかが、鍵になってくる。

 たとえば一軒めにシェリーとハムから始める予定だったのに看板が出ていないとして、素早く近くの酎ハイとポテト・サラドの組合せへと切り替え、更に二軒目に予定した黑糖焼酎を〆にずらし、間に黑麦酒とフィッシュ・アンド・チップスを挟む。或はフライの気分の時、偶さか目に入った(摘む予定ではなかった)美味そうな鯖を食べてから、次の呑み屋で摘む筈のピックルスを、お漬ものに変更して、更にお漬ものの出來がいいところを撰んだりするのは、わたしくらいになると、然程の困難でもない。

 そういうのが自慢になるのか知ら。

 首を捻る讀者諸嬢諸氏はまさかいないと思う。豊かな酒席は人生の歓びだもの。と云っても若い讀者諸君には、判りにくいかも知れない。それならちょいと洒落たア・ラ・カルトや、凝った点心、渋い感じの小料理屋の地図(それがラーメンとカレー・ライスとハンバーガーと珈琲でもかまいませんよ、この際)を自分で作り持っていると、食事に自在な豊かさが加わる(可能性がある)と云い替えれば、何人かは手を拍てるのではないか。それもまた、スメルガス・マップ、即ち樂みの地図のひとつに数えてもいい。