閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

801 三分の特典

 某日。

 暑くつて空腹は感じるのに、食慾までには到らないお晝に食べるのは、冷たい麺が有難い。さて画像をご覧ください。品書きには

 「特製冷しラーメン」

と書いてあつた。特製を名乗るくらゐだもの、うまいにちがひない。さう思つて註文したんである。先に麦酒をやつつけながら待つこと暫し。うで海老一尾、白髪葱、もやしに大葉に胡瓜、煮豚と煮抜き半個、プチ・トマト、それから白胡麻をちよいと散らしてある。これとは別に女将さんが

 「お好みで、どうぞ」

お酢を用意してくれたが、先づはそのまま啜つた。このお店は味附けをおつとりさせる傾向があつて、矢張りそれは変らない。うーむ。少し頼りないか知ら。蓮華にソップを掬つて麺を乗せ、酢を滴したら、ふはふはした頼りなさが一ぺんに引き締つた。酢の壜を見ると

 「特製果實酢」

とあつて、檸檬と他に何かの柑橘だらうか、皮を細かく刻んだのが入つてゐる。だから鼻につく噎せた感じがしなかつたのか。女将さんの云ふお好みは、酢がにがてなお客を考慮しての言で、この"特製"冷しラーメンは、"特製"果實酢があつて完成するのだな。

 (ふむ成る程)

納得して、それでも蓮華に乗せてから果實酢を滴し續けたのは、丼に掛けまはすと、酢の味がソップに沈むからで、我ながら合理的な判断だなあ。さう自讚してゐたら、いつの間にやら麦酒のグラスも丼も、空になつてゐた。あはせてざつと千六百円。お金の払ひ甲斐がある味であつた。ここでもう千円を出したら

 「もり蕎麦と一合のお酒、それに板わさくらゐ、奢れる筈なんだがなあ」

澁好みの讀者諸嬢諸氏よ、その気持ちは判らなくもない。寧ろ判るんだが、これは我が陋屋から、徒歩三分で辿り着けるお店の話である。かういふのは特典なのだと自慢をしたところて、許してもらへるにちがひないと、わたしは秘かに思つてゐる。