八百万とか嘘八百とかで使はれる八百の、その八百といふ数自体に意味はない。数へきれないほど、たくさんなんですよと、さう云つてゐるので、多数を象徴する記號と考へれば宜しい。ぢやあなんでまた八百なのかと思へてくるが、漢字の八は末廣がりで縁起がいいと云はれるでせう、廣がるところが多数を暗示するのに具合がいい。と思はれるのだが、本当かどうか、保證はしませんよ。
算用数字とするのが正しいか、アラビヤ数字と呼ぶのが適切か、そこは兎も角、"800"や"8"だと、視覚的な聯想…たとへば末廣がり…は働きにくい。言葉ではなく、文字それ自体に聖性、或は咒を感じたり見出だしたりするのは、所謂漢字文化圏の特質ではないかとも思へる。アルファベット文化圏の人びとは、特定の一文字に何かしらの意味合ひを感じるのか知ら。ちよいと興味がある。
さういふ文化的人類學的な興味はさて措き、この手帖が八百回目になつたのです。嘘八百回ではありませんよ。いや待て。数勘定は八百だけれど實質としてはどうだらう。まづいことになりさうな気がする。丸谷才一の『女ざかり』に、ある男が書いたひどく穢い字を、"価値的には字ではない"とした場面があつた。そそつかしくて粗野で、優秀な頭脳の持ち主といふややこしい男と描かれてゐたから、"価値的には字ではない"文字を書きつらねるのは、寧ろ似つかはしい。この長篇小説は實に面白いから、別の機會に取上げるとして話を戻すと、我が手帖の八百回は實際その回数になるのだが、価値的に何回分なのかと云へば、甚だ心許ない。
(我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に念を押す。"諸々を考慮した結果、實質は何回分相当である"などと、論評するのは勘弁してもらひたい。我ながらどう考へても半分以下になるのは確實と解つてゐるし、もつと云ふと百未満でも不思議ではないと思つてゐる。如何です。中々謙虚な態度でせう)
勿論ここで、継續こそ力だと胸を張れなくはない。
胸を張つたとして、咜られはすまいとも思はれる。
併し常々、文章で数が質に転化することは絶対に無いと主張するわたしが、象徴的とは云へ、八百といふ数をもつて自慢するのは矛盾がある。
たとへばこれがある種の記録なら、話は丸でちがふ。野球の安打や本塁打、聯續出場なんかは、積み重ねがそのまま偉大さである。広島カープの衣笠祥雄は、安打や出場試合の数は減らないから好きだと云つたさうで、衣笠くらゐの撰手がなあと思つたのは事實だが(ここだけの話ですよ)、ここはさもありなんと膝を打つべきか。その視点で考へれば、文章を書く行為の結果は、野球でいへば打率に似てゐなくもない。稀に本塁打をかつ飛ばしたところで、三振が多ければ率は下がる。進んで認めたいわけではないけれど、我が身を振り返るとさう云はざるを得ない。
では止めて仕舞へば済むかといふと、ことはそこまで単純ではなく、文學的な価値とは別に、この手帖がわたしの娯樂なのは確かである。そつちの方向に視点を移すなら、打率の低さを気にすることはないし(矢つ張り、ちよつぴりは気にすべきでせうか)、数自慢も成り立たなくはない。と書けば我が賢明な讀者諸嬢諸氏は、成る程丸太は八百回を自慢したいのだが、うまい理窟が見附からないのだと考へる筈で、まつたくのところ正しい。
「すりやあまた、野暮な見栄だこと」
苦笑されたら、頭を掻いて誤魔化すしかなく、何を云はんとしているのか、自分でも判らなくなつてきた。だらだら續けても仕方がない。この稿は曖昧に、八百は通過点の数字なのでと云ふに留めておく。後二百回續ければ、千に届くから、謙虚か自慢かの態度はその時の打率で決めれば宜しからう。
續くかどうかは、また別の問題なのだけれども。