閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

840 おでんつゆ

 最近マーケットで賣つてゐるおでんが、中々に便利だと気がついた。練りものや結んだ糸蒟蒻で嵩増しした後、適当に味を調へたら立派な摘み乃至おかずになる。余つたつゆで蕎麦や饂飩を煮るのは勿論、雲呑を入れるのもうまい。それで餃子を煮ても宜しからうと考へ…さう云へば水餃子を随分と長く食べてゐない。

 餃子を源流まで遡ると、藥草だの羊の肉だのを刻んで小麦の皮で包んで煮た藥品…凍傷をなほすとか、そんな効能だつたと思ふ…の一種に辿り着くさうだ。それを歴とした料理に發展さしたのだから、中華の喰ひ意地は大したものである。我が國や西洋の料理で、藥品まで遡れる食べものはあるのか知ら。インド辺りにはありさうだが、あすこの現代は(食べものに限らず)發展でなく、渾沌の結果のやうに思はれる。

 話を拡げると手が及ばなくなる。

 我われが水餃子に馴染みが薄いのは何故だらうと頭を捻らなくてもいい。第一に焼き餃子の方が早く受け容れられたこと。この辺の事情に就ては一度書いた記憶がある。

 もうひとつ、中華圏の水餃子はソップ…汁ものではなく、我われの食卓でいふごはんに相当する食べものだつたからではなからうか。まつたくのところ、お米、ごはんの器の大きさと懐の深さは得体が知れず、遠いとほいご先祖が夢中になつたのも無理はない。お米の耕作地の拡大を軸にした古代史があつたら讀んでみたい…といふのは兎も角、さういふ背景を持つこちらの食事に、唐渡りとは云へ水餃子が割り込む余地を見出だすのは無理がある。

 「だつたら汁ものにすればよかつた」

と考へるのは簡単だけれど、既にお味噌汁があり粕汁があり豚汁がある中では、それも困難だつたと想像するのは容易でせう。詰り一品として完成してはゐても、我われの食卓に入らには不足があつたわけで、素早くおかずに転じた焼き餃子とのちがひがここにある。たとへばお味噌汁の種だつたらと思つたが…旨さうぢやあないな。

 併し最初つから水餃子を主役に据ゑた食事はありさうな気がする。昆布や椎茸でソップを煮たところに餃子を入れ、薄く切つた大根や菠薐草を一緒に炊けば出來る。鍋料理よろしく炊きながらその場でつついてよく、大きなお椀によそつて食べるのだつてよろしからう。ソップを淡泊に取れば(もしかするとお酒を使ふのもいいかも知れない)、醤油でも辣油でも胡椒でも七味唐辛子でも、お好みの味つけで樂める。鍋料理と煮ものの合の子…と云つたらきつと咜られるから、あひだの食べ方と云ひませうか。

 「でもそれぢやあ中華の保守本流ではない」

さう反論する余地はたつぷりある。そこは認めるとしても、水餃子を中華の保守本流式に食べたければ、さういふ店で味はふのが正しい。家で罐麦酒を引つかけながらやつつけるんなら、そこまで気にせずともいいし、何ならマーケットのおでんつゆを使つたつてかまふまい。おでんつゆは応用の幅が広いから、焼酎を割つてよく、饂飩や蕎麦を煮るのもよい。勿論それで平らげるおでん風の水餃子が、玄冬の季節に似合ふのは、念を押すまでもないでせう。