閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

858 短い一本の棒の話

 令和四年の終り頃、母親がスマートフォンを手にした。かんたんとからくらくとか呼ばれるやつ。手指の荒れが激しいのに、フリックといふのか、あの操作をどうするのかと思つてゐたら、キャリアが寄越したらしいタッチペンと呼べばいいのか、あれを使つてゐた。

 

 ほほうと思つたら、フィーチャーフォンを使ひ續けてゐる父親が、伜よ使ふかと、別のタッチペン(細身で辛子いろ)を差し出してきた。母親が通つたスマートフォン教室に同行した際に、頒けてもらつたといふ。物珍しさで貰つたが、フィーチャーフォンで使へるわけでなし、持て余したものか。

 

 それで初めて使つてみた。半球形の軟らかい護謨で画面を叩くといふか触れる。意外とすんなり反応する。ロングタップから範囲指定、コピーやペーストもスムースなので、ほほうと思つた。どうやら喰はず嫌ひ…この場合なら使はず嫌ひと云ふべきか…だつたらしい。

 

 どうせ使へまい。

 

 さう思つてゐたのは確かで、併し使へまいと思つた理由が思ひ出せず、使つて駄目だと感じた記憶もない。常用するペン(紙の手帖で使ふやつ)では、ペン先が細くまた硬いのを好むから、丸つこくて軟らかい護謨に不信を感じた可能性はある。詰らない理由と思つてはいけない。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にだつて、存外似た理由で手に取らなかつた道具のひとつやふたつ、あるにちがひないよ。

 

 併し使つてみるとこのタッチペンは中々に便利である。指より確實なタップが出來て(これは私の無器用も要因なのだけれど)、画面が脂で汚れないのもいい。画面の広い機種やタブレットでの使ひ勝手は兎も角、手元のスマートフォンなら別に不満もない。何より私のやうに旧式な男には、ペンを使つてゐる安心感があつて助かる。

 

 慌てて念を押すのだが、手元のタッチペンがパーフェクトではないのは勿論である。父親から譲つてもらつたのは、キャリアがどうぞお持ち帰りくださいと云ふ程度だから、造りは如何にも安つぽく、護謨も直きに破れさうで、あからさまに云へば、使ひ捨て程度の代物に過ぎない。まあそこは、使へなくなつてから考へれば宜しからう。

 

 問題なのは持ち歩き(収納)の方で、たかだか短い棒一本、どうとでもなる、とは限らない。スマートフォン本体と一緒にあつて、速やかに取り出せ、叉しまへる必要がある。家に居れば筆入れにはふり込めばよいが、外出の時はどうすればいいものか、意外に悩ましい。スマートフォン用のケイスを買へば済みさうであり、たかだか短い棒一本(それも使ひ捨てくらゐ)の為、何百円だか何千円だかを遣ふのは腹立たしくもある。さうしたら、がらくた函にいつ買つたか、造りの非常に雑な(きつと百円均一の)ケイスがあつた。雑な造りだが使へなくもなささうでもある。暫くはこれで、持ち出し易さと使ひ勝手を試さうと思つた。短い棒一本から始つた、これを樂みと呼んでいいものか、どうか。