閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

859 翻訳の話

 日本國際ギデオン協會と日本聖書協會による『聖書』に目を通してゐる。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の為に念を押すのだが、信仰に目覚めたわけではない。偶さか手元で見つかつた丈のことである。これも偶さか、久しぶりに観た『ガメラ2 レギオン襲来』に

 

 「我らはレギオン。大勢でゐるがゆゑに」

 「聖書か」

 「マルコ第五章です」

 

といふやり取りがあつて、それが手に取り頁を捲る切つ掛けになつた。尤も未だ「マタイによる福音書」であたふたしてゐる(マルコはその後)から先は長さうである。

 

 一体私は速讀の方なのに、この『聖書』は時間が掛かる。御言葉に心を打たれてゐるからではない。紙の質と活字の小ささと印刷の惡さで、目がひどく疲れるんである。信仰薄い者に讀ませるには、無理がありませんかねえと、厭みのひとつも云ひたくなつてくる。

 尤も薄つぺらい紙と小さな活字と印刷の惡さが、時間の掛かる大きな理由とは云へない。率直に云へば、翻訳が我慢し辛いほど酷くてこまる。その翻訳がいつ頃、たれの手になるのかは判らないが、『聖書』である以上、言葉遣ひや文字の撰び方には細心の注意を払ふのが当然でせう。お粗末な翻訳でオーケイを出した背景をどう想像すればいいのか知ら。

 立花隆の著書…題名は失念した…で、翻訳ものを手にした時のこつとして、讀みにくければ、翻訳者の技倆を疑ふのがよく、(出來れば)別の訳者のを讀めばいいと書いてあつた。手厳しい。併し正しい一面もあると思へるから不思議で、讀み巧者の立花だから、説得力があるのだな、きつと。

 

 ここで「"仁義なき戦い"風に訳した(新約)聖書」の文庫本があつたのを思ひ出した。新興やくざのイエスさまが"ワシは~ぢやけエのう"と云ひながら、旧約やくざの縄張りにかち込みをかけてゆく筋立てだつたか、散らちら立ち讀みして、書店の本棚に戻したのは失敗だつたかも知れない。もしかしてギデオン協會は猛烈に抗議しただらうか。

 "仁義なき"翻訳は兎も角、翻訳の工夫は試すのがよからうと思ふ。私は文章言葉で方言を使はれるのを好まないが、たとへば伊豫言葉で説き教へるイエスさまなら、随分ともの柔らかな印象になるだらう。方言に限らず、歌舞伎の台本風仕立てでも、美文調でもかまふまい。私のやうな信仰薄い男に讀ませるのが第一の要点。讀ませて更に、神さまへ導かせるのが第二の要点の筈で、この『聖書』の日本語訳者はその辺にひどく無頓着に感じられてならない。

 

 ところで日本語訳『聖書』には、明治頃の文語訳があると聞いた。尊敬する丸谷才一が文語訳を絶讚してゐたのを覚えてゐる。すりやあ当り前で、明治人にとつての文語は骨身に染み込んだ書き方だし、お手本になる優れた文章も、枚挙に暇がなかつたらう。さうなると我が『聖書』の不幸は、令和の今に到るまで熟成は勿論、完成にすら達してゐない(完成が許されないと云つてもいいのだけれど)口語文を採つたことかと思はれてくる。

 かう云ふと信仰厚い眞面目な聖職者は、御言葉を何と心得るのかと腹を立てるだらうが、ぢやあ讀まれない…讀みにくい無頓着な日本語に訳したのも、御言葉に背く態度ではありますまいかと反論して、再反論はされにくからう。基督教にも色々の會派があるさうだから、各派対抗日本語訳大會でも開けばいいのに。それとも工夫を凝らした様々の日本語訳『聖書』から、優れたと思へる訳を撰ばうとするのは、御心に背く行為と糺弾されるのか知ら。