閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

866 "便利"の話

 麦酒は便利である。たいていの食べものに適うんだもの。呑みものに迷った時なら、ひとまず麦酒を撰んでおけば、安心出來る。と書いたら、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏から

 「"便利"って、ちょいと惡意が感じられるな」

と云われそうな気がする。三人くらいはきっと、いそうな気もするが、いやだなあ、おれは麦酒に色々の恩義がある。惡意を持つわけ、ないじゃあないですか。

 とは云え、"麦酒のお摘み撰手権"を開催して、準決勝の四品に何が進出するか、百人に訊いたら、予想にかなりのばらつきが出るだろうとも考えられる。焼き餃子、ハムカツ、焼き鳥、枝豆をおれは挙げたいんだが、

 焼きソーセイジ(たっぷりのマスタードは欠かせない)やカリー・ブルスト、ザワー・クラウト、

 フレンチ・フライやミンチカツ、

 烏賊のフライでなければ下足の天麩羅、

 フィッシュ・アンド・チップスだの玉葱のフライだのロースト・ビーフのサンドウィッチもそうだし、野球場に限定したらホットドッグ(玉葱とケチャップとマスタードを忘れるべからず)だって麦酒に似合う。回鍋肉に青椒肉絲、茄子の肉味噌炒めを挙げるひとが出ても不思議ではなく、侃々諤々の議論になるのは疑念の余地はない。その侃々諤々も叉、麦酒の摘みに恰好でしょう。

 一方、上に挙げた中で、"お摘み撰手権"の常聯強豪が決っているかと云うと、そこはどうも怪しい。麦酒自体がシリアスでコメディで莫迦映画で、自在に表情を変える巧みな、併し主演には一歩届かない役者のような呑みものだから、良くも惡くも相手役、即ちお摘みを撰ばない。楚々とした美女だつて活發な少女だつて妖艶な惡女だつて、一定の評価を得られるのだから、冒頭に戻って"便利"と呼んだからといって、惡意があると責められる心配はないと思われる。正直なところ、自分で挙げた四品だって、明日になったら変っている可能性は否定しにくい。

 まあ脂っぽい、しつっこい、そういう傾向の食べものが麦酒に似合うのは、大方の同意を得られると思う。ここでややこしくなるのは、日本で食べられる麦酒のお摘みは外ツ國よりおそらく種類が多いことで、前述の諸々だけでなく、鯖の塩焼きや鮪の赤身のぶつ切り、焙った厚揚げに鶏そぼろのあんをかけたの、小芋と青菜と油揚げをさっと焚いたの、浅蜊の酒蒸しやおでんでも、麦酒が供される場合がある。詰り麦酒には便利さ…和洋中を問わない万能性が求められる。前段で器用な役者に譬えたけれど、そこにはオールマイティでなくてはならぬ事情があった、と推測するのが妥当で、その事情は第一に

 「日本では未だ二世紀にも満たない程度」

の麦酒史しか刻まれておらず、第二には

 「初期の麦酒史は日本の食事の激変期と重なっていた」

ことを挙げればよろしかろう。何しろこの國には千年余の昔からお酒があったのだから、対峙するのに強烈な個性ではなく、中庸…どの食卓酒席にも適う…を重視したとして、それは寧ろ当り前の判断だった。近年の地ビール、クラフトビア流行りが、中庸ではない醸りが受け容れられる程度まで(但しおれの知る限り、"食べものとあわせる"ための地ビール、クラフトビアはない。一部のお酒…日本酒と同じく、単獨のうまさに偏っているのは、感心しないんだがなあ)、麦酒が我われの舌に馴染んだからだとすれば、おれの推測の間接的な證拠にもなりそうな気がする。序でながらおれの好みは、中庸でオールマイティなニッポンのビアである。ゆえに論評は不公平になっていますからね。

 

 さて。ここまで書いてから云うのも何だが、麦酒は文字にするより呑むものである。理窟は泡と一緒にこれから呑み干すことにする。薩摩揚げがある筈だから、生姜醤油でお供にしよう。麦酒は便利な呑みものなのだ。